鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【ドストエフスキー】『悪霊』──ステパン先生ってSNSでよく燃えてそう

 SNSをやっていると、明治~昭和中期あたりの作家・思想家の発言を切り抜いたものが流れてくることがある。1行程度のことばで「○○とは△△である」のようなラベリングをしている(ように見える)ものが多く、なにかしらの見解を正当化したいひとが「昔の偉いひともこういってたぞ!」とばかりにRTするようだ。
 RTするひとたちにとって、それらの発言をした作家・思想家は、「自分に都合のいい主張をしてくれてる昔の偉いひと」程度の存在でしかない。大事なのは「昔の偉いひと」(のように見える)というところだけで、発言がなされるまでの“文脈”などは存在していないのである。1行の切り抜きによって、偉大な作家・思想家のことばは、うすっぺらい見解に適合するようなうすっぺらいことばとして、リメイクされてしまっているわけだ。じつに腹立たしいことである。

「きみたちには想像もつかんだろうが、人間、言いようもない悲しみと憤りに胸をかきむしられる時があるものですよ。ほかでもない、自分がもう長いこと、神聖なものとして大事にいつくしんできた偉大な思想が、そこらの青二才連に横取りされて、やつらと似たようなばか者どものところへ、俗っぽい街頭へもちだされてしまう、で、その思想が、今度はもう古物市場の隅っこか何かに、見るかげもなく、泥まみれになって、調和も釣合いもあらばこそ、洟たれ小僧の玩具みたいなぶざまな姿をさらしているのを、行きずりにふと目にしなければならない、そんな時です。」
(フョードル・ドストエフスキー『悪霊』江川卓訳)

 多くの人間が、“偉人”の言動をありがたがったりそれにたいしてあれこれ持論を述べたりするわりに、その著作自体に触れようとはしない。いまの自分の主張と関係ない(ように見える)ところには興味がないとでもいわんばかりだ。その偉人たちは、読者のそういうなにかしらの意識を変えるために、各々の著作を書いていたはずだろうに!
 ショーペンハウアーはこのようなことを書いている。

 昔の偉大な人物についてあれこれ論じた本がたくさん出ている。一般読者はこうした本なら読むけれども、偉大な人物自身が書いた著作は読まない。新刊書、刷り上がったばかりの本ばかり読もうとしている。それは「類は友を呼ぶ」と諺にもあるように、偉大な人物の思想より、今日の浅薄な脳みその人間がくりだす底の浅い退屈なおしゃべりのほうが、読者と似たもの同士で居心地がよいからだ。
(アルトゥル・ショーペンハウアー『読書について』鈴木芳子訳)

 これを読んで「ためになるなあ」とか「せやろか??」とか「私は昔の偉いひとと同じ発想を持っていたのか……!!(驚愕)」とか考えた諸氏は、さっそく『読書について』をポチろう。