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こい(@gyaradus)のブログ

【ホラティウス】『詩論』──へたに蘊蓄で彩られるとハリボテっぽさが増して白ける

 

 麻耶雄嵩のデビュー作『翼ある闇』に出てくる美術関連の蘊蓄は、半分ほどでたらめということをご存知だろうか。これは新装版ノベルスのあとがきで麻耶本人が告白していることで、「どうせ元ネタなんて調べるやついないだろ……」というような意識でやったらしい。『ローマ帽子の謎』にはタマカ・ヒエロとかいう架空の日本人の著作からの引用があるし、元ネタの『黒死館殺人事件』だって、出典が怪しいものがけっこうあるようなので、元ネタに沿っているっちゃ沿っている。

 なんでそんなことをやらかすのかというと、こうした蘊蓄でごまかしておかないと、作品のチープさが際立ってしまうんじゃないか、と作者が不安になるからだ。『翼ある闇』は、人をくったパロディーものの側面もあるから、「小栗虫太郎や『館シリーズ』のものまね」というユーモアとしてこれがうまいこと作用しているが、「作品をカッコよく見せたい」という意図でこういうことをするのは控えておいたほうがいいだろう。むしろ興をそがれてしまう。

 小説を読むとき、冒頭にシェークスピアだかゲーテだかの引用があって、「ホホー!」と『どうぶつの森』のフータみたいに読んでみたら、まったく内容に関係がなく、一気に白けた気持ちになることがある。北村薫の「砂糖合戦」のようにトリックに絡ませてくるならともかく、ただの雰囲気づくりのために大家を踏み台にしているものだから、作者の軽薄さおよび作品の貧相さが際立ってしまう。おまけに、そういう手を使う輩にかぎって、文体がやたらチープとくる。参考・引用文献がずらずら並んでいて、作中人物も文学だの絵画だのを引き合いに出すわりに、本編で《○○は叫んだ。「うおおおおおおおおおおおおお!」》なんて文が出てくる。こういうのは作中に並べられているパーツの数々が有機的に噛み合ってない(作者自身が語っている物事にたいして精通していないので)のがありありとわかるから、ハリボテっぽさがものすごい。

 

 詩を書くなら、自分の力に合った題材を選ぶこと。そして自分の肩に何が担えるか、何が担えないか、時間をかけてよく考えること。自分の力であつかえる題材を選ぶ者は、流暢さにも配列の明快さにも欠けることはないだろう。

ホラティウス『詩論』岡道夫訳)

 ホラティウスは「叙事詩人」の大袈裟な前口上にたいして、「山が出産しようとしているが、生まれてくるのはこっけいな鼠一匹だろう。」と揶揄している。「大山鳴動して鼠一匹」を踏まえた句だ。シェークスピアゲーテを掲げながら安っぽい話を展開させる人間にも同じことが当てはまる。たいした話じゃないなら、読者をしらけさせないためにも、大げさに盛り上げすぎてはいけないのだ。

 また、マリオ・バルガス=リョサはこういっている。

 読者が語られている物語を信じることができないのは、文体がまずくて不適切であるために、言語と出来事との間に乗り越えることのできない断絶、間隙を見出すからにほかなりません。そのせいで、書かれたフィクションが技巧と作者の恣意的な感情の上に成り立っていることが見え透いてしまうのですが、成功しているフィクションではそうしたものが払拭されていて、目につかなくなっています。

マリオ・バルガス=リョサ『文体』木村榮一訳)

 

 江戸川乱歩の作品が、要素だけ抜き出してみればとんだバカ話であるにも関わらず、肌にへばりついて染みこんでいくような鮮やかな感覚を与えるのも、文体の強烈な力のためだ。重厚な話を書きたいなら、本からかき集めた蘊蓄でハリボテを作るより、まず、自分の頭の中に描かれた世界に適した文体を作り上げる必要(※)があるだろう。

 

※備忘録 「自分に適した文体を身につける方法」についてバルガス=リョサが『若い小説家に宛てた手紙』でいうには、「すぐれた文学書をたくさん読め」「とにかく本を読め」ということだ。