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こい(@gyaradus)のブログ

【ゲーテ】『若きウェルテルの悩み』──自殺しようとしているひとを止めるのは偽善?

 すこし前、橋から飛び降りようとしていた自殺志願者を引き止めた高校生2人がSNS上で非難を浴びていた。見たところ、「死にたい」と感じている人物は死ぬことこそが本人にとって幸福なのだから、それを妨害するような行為は“偽善”でしかない、という見解が多いようだ。「嫌なことから逃げちゃだめだ」という高校生の自殺志願者にたいすることばも怒りに拍車をかけたらしい。

 なんで世の中では「自殺はよくないこと」とされるのか、といえば、社会にとってその構成員に自殺されるのは都合が悪いからだ。その人物が属している社会の労働力を減らす。極端な話をすれば、村人が全員自殺したら、その村は存在しなくなる。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の第5巻で、自殺を「国にたいする不正」と評価していて、自殺を社会悪とする認識が古代ギリシャにはすでに存在していたことがわかる。

 

 自殺はかかる意味での「正」しからぬ行為の一例であり、法はこれを放任しない。だが、法の放任しないところであれば、これは法の禁止しているところだといえる。

アリストテレス『ニコマコス倫理学高田三郎訳)

 

 

 古代アテネでは、自殺した場合、処罰としてその自殺者の葬儀は行われなかった。自殺は犯罪扱いだったのである。「キリスト教徒になれば自殺をしなくなる~」といういかにも眉唾話をこのまえSNSで見かけたが、ショーペンハウアーが『自殺について』で触れているように、そもそも旧約聖書新約聖書に自殺を悪とする記述は存在しない(調べてみると、『ヨブ記』あたりの記述を都合よく解釈しているだけらしい)。古代アテネと同じように社会の必要性から生まれたルールに、キリスト教が組みこまれただけだろう。

 日本では、切腹や神風特攻隊などの歴史があるから一見自殺に寛容なように見えるが、いずれも責任をとったり国家の防衛を果たしたりと、社会から要請された自殺である。アリストテレスソクラテスの自殺を肯定しているように、こういったものはうつ状態などの自殺とは様相が異なる。高校生が日本史の授業で習うように、徳川家綱の治世では殉死が禁じられているし、現在の日本でも、自殺者にたいしての処罰を行う法は存在しないものの、自殺の手助けを行えば罪に問われることとなるから、けっきょくどこの社会でも、周りの利益に関わらない限りは「自殺は悪」なのだ。

 ということで《社会の利益》をふまえた価値観では、自殺志願者を止めた高校生たちの行為は「偽善」ではなく明確な「善」ということになる。「自殺をしたら周りの人が悲しむ」といった理由で自殺を否定するひとなど、世間で“まとも”とされるひとたちの多くは、このような価値観に属している。

 一方、「自殺したい人間の気持ちを優先させるべき」という見解から、自殺を肯定するひとたちは、「社会」よりも「自殺志願者個人の心情」を善悪の基準としている。自殺志願者の本人の事情(自殺しようとしていたのは社会人のようで高校生が共感するのは無理がある)を考慮せずに、社会的な道徳に照らし合わせて「逃げる人間」とラベリングされる。このような「正義の無理解」をおそらくは大なり小なり自分の経験と照らし合わせて怒りが触発されるのだろう。『若きウェルテルの悩み』のウェルテルとアルベルトの自殺についての議論がこれにかなり近い印象を受ける。“まとも”な人間であるアルベルトは、社会的な道徳に照らし合わせて、「自殺は臆病者がやること」と語り、ウェルテルの主張を「大げさ」「飛躍している」として受けつけない。ウェルテルのほうは、アルベルトを手紙の中で「いい人間」「道徳家」と揶揄しながら、ところどころ頭の悪いやつだと見下すようにして怒りを表明する。

 大人で常識的なアルベルトは、ウェルテルの社会で生きる息苦しさを象徴している。「自殺はよくないから自殺者を助けるべきだ」という善意自体が、ここまで書いてきたように社会の都合によるもので、それは社会に受け入れられない人間の苦痛をさらに呼び起こすものでしかない。

 

 落ち着いた理性的な人は、そういう人間の状態をつぶさに見渡すだろうし、また何かと忠告もしてやれるだろう。だが、そうしたところでどうなるっていうんだい。病人が寝ているそばに立っていても、自分のありあまる力を爪の垢ほども病人に分けてやることのできない丈夫な人間とえらぶところはないじゃないか。

ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳)

 『鋼の錬金術師』のエドワード・エルリックは、信じていた宗教に利用されていたと気づいて打ちひしがれるロゼに、「立って歩け、前に進め、あんたには立派な足がついているじゃないか」なんて声をかけていたが、ウェルテルが冷ややかな視線を送っているのはこういう発言に対してだ。読んでいる人間のほとんどは健全な青少年とかだから、エドのセリフに元気づけられるだろうが、容量を越えてしまったひとには、意味をなさない。こころの傷は、気合では治せないのだ。

 わたしは、“まとも”な人間として社会のロジックに従ったほうがわたし自身の幸福に都合がいいと考えているから、自殺を阻止した高校生たちの行為は「善」だと判断する。しかし、社会的な善意では救えない人間が一定数以上存在するのも確かなんだろう。