鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【ゴーゴリ】『肖像画』──「自分が描きたい世界」を“見透す”ことの価値

 前々回の記事ではじめて書いたホラー小説『ゴールデン・インク』を紹介した。こういうのはだいたい「予想以上に読まれていて恐縮しています……」とかいうのがお約束なのだが、わたしの作品の閲覧数は、なんと2PVであった。しかもその2PV分は最初の1話目にしかついていない。ホラーものなのに、怪物が登場してすらいない部分だ。つまりは読まれていないも同然だ。

 これはもはやおもしろいとかつまらないとかそういう次元を超えている。わたしはさっそく昼夜問わずTLに貼りつき、ツイッターで毎日3回セルフRTを行い、自作の宣伝を続けた。応援のつぎつぎといいねをもらい、PV数も13.5倍に増えたのであった。……13.5倍ってもとが2しかないので27だ。全6話なんだが、だいたいのひとは1話をさらっと見て読むのをやめている。最後までついたPVはけっきょく2だけ。どれだけ宣伝しようが読まれていない。これだけフォロワーがいるというのに。

 私はだれからも必要とされていない――。

 前頭葉が締めつけられるように痛みはじめる。けだるさが増して吐き気がこみ上げてくる。全身から力が抜け、倦怠感にまみれて、ベッドに仰向けに寝転がった。

 樽のように太った伯母の姿がフラッシュバックした。小3の頃くらいだろうか。自動車の中でのことだった。私が子どもらしくなにか不遜な態度をとって、彼女のご機嫌をうかがい損ねたのだろう。従妹に向かって、「ひとの気持ちがわからんのだわ」といったのをおぼえている。私はその年の前に両親を立て続けに亡くしていた。このとき黒い染みのような恐怖が広がっていった感覚をいまでも覚えている。私の頬を一筋の涙が伝った――。



以下、本編。

 伯母は痩せ型でわりと美人だし、わたしは両親健在の許で育ったし、そもそも従妹など存在しないから、上記の絶望エピソードは真っ赤な嘘なんだが、公開したホラー短編のPVがぜんぜんなかったのは本当だ。だれでもいいから読んでくれ。

 前々回の記事で触れたように、今回書いた短編は試作だったため、ツイッターやブログ以外から読者が入ることはないように、タグはほとんどつけず、筋書きも「無人島に3人の子どもが流される。」というまったく中身が伝わらないものにしておいた。これでどれくらい呼びこめるのか……と様子をうかがったが、まったくだめだ。一週間経っても2PVっておい。これまでもパズラーの掌編をツイッターには載せていて、そちらは1000PVくらいいくこともあったから、意外となんとかなるかと思ったが、どうも私の書いた作品というだけで目を通してくる、というひとはほとんどいなかったようだ。その後の一週間で10回ほどセルフRTして、ようやく最後まで読んでくれるひとが出てきた。

 よく知られていることだが、素人のウェブ小説、それもいわゆる“ふつうの創作”が、なんのアクションもなしに読まれることはほぼない。二次創作なら、「このキャラに関するものならなんでも読みたい!」という読者も多く、いちおうは眼を通してもらえることも少なくはないが、その他のジャンルは、タイトルやタグ、設定(アプリによっては表紙も?)に工夫を凝らし、ほかのユーザーの作品にレビューをして読み合いをするなどして、眼を通してもらえる機会を広げていくしかないのだ。そこが欠けてるので、今回のホラー短編のもつアプローチは、ほぼ「作者が書くものへの興味」のみにしぼられる。創作物は大なり小なり他人の時間を食うものだから、作者への信頼が不可欠だが、その結果がどの程度のものかは、先述の通りだ。じ、人望がない……。

 読者の都合を考慮していない、という観点でもかなり問題がある。今回の作品は、“ふつうの小説”を意識して書いたものだから、各章の切れ目が場面の移り変わりで設定されている。ウェブ小説にしては、長すぎる。キングを意識したこともあってか、地の文が占める比率も多く、描写もしつこいため、すぐに疲れて続きを読む気がしなくなるだろう。章タイトルは淡白に「1、2、3、4、5、6」でつけてあるから、自分が読んでいる地点もわかりづらい。ツイッターやpixivにあげている謎解きもののシリーズは、このあたりに配慮している。じゃあこっちでもしろよ、という話なのだが、いちおうブログ記事の活動報告として書いてたから、なるべく元の形式をままにしときたかったんだ……。

 小説というのは、どんな出来であれ、書き手のアイデンティティーをある程度背負っているものだから、読まれないのは集団無視いじめを受けているかのごとく(そんないじめを受けたことはない)孤独感を強めて辛いものだ。けっこう引きそうなところも多い話だけど、4~5人くらいは最後まで読むんじゃないかな~と思ったが、結果は0人(Syamu_Gameか?)。呼びこみをして2人。いやまあ、読む気分とか時間の余裕とかの都合も必ずあるから、もっと長い間公開していれば、もうすこし読む人が増えただろう(じっさい1話目だけなら13PVはあった)けど、PV数気になって集中力下がるし……そもそも本来の作風とかけ離れてるからこれを長く置き続けてもな……ということで、血涙を流しつつ消してしまった。今後、カクヨムで読んでもらう前提で作品を書くとしたら、もうちょっと適応した形式に作品を変えるだろう。

 あーーーー、くそもう、めっちゃ読みどころがあるやつだったのに!! まあいいや、次に活かすとしよう(眼を通してくれた13名の方、ありがとうございました)。



以下、本編の本編。

『他人のことをなんで気にする必要がある』と、いつも父は言うのでした、『だっておれは他人のために仕事をしているんじゃないんだからな。客間の飾りに持ちこむような絵は、おれは断じて描かないぞ。おれの絵は教会を飾るんだ。おれをわかってくれる者なら――ありがとうと礼を言うだろう。わかってくれなくっても――やっぱり神に祈りをささげることには変わりあるまい。』
ニコライ・ゴーゴリ肖像画』横田瑞穂訳)

 ゴーゴリの短編『肖像画』に登場する語り手の父親は、19世紀のロシア文学らしく(むしろだいたいはゴーゴリが元ネタ?)素朴な敬虔なキリスト教徒だ。「人みな自分に応じた分というものがある」という信念を持っており、実直で、自分の持つビジョンを追求し続けるという人物像である。「客間の飾りを描くのだって立派な仕事じゃん」と思えなくもないが、これは客間の飾りがだめというよりも、このひとが教会の絵を描くのが「自分に応じた分」と決めているということだろう。語り手にいわせれば、「輝かしい才能を持った連中が掘りあてることができなかった気高い表情がにじみでていた」そうだ。

 この父親が登場するのは第二部で、第一部では、これと対比を成すように「政治家に成り果ててしまった画家」が主役に据えられている。自分には描けない優れた他人の作品を見て、自身が泥沼に入りこんでいることに気づくシーンが印象的で、「すぐれた作品の絶対的な価値」への信念、「自身の才能へのこだわりよりも自分の心に従うこと」「人生を通して自分の価値観を作りあげること」についての感性がわたしを強くとらえている。

 どうも、わたしが形式にこだわっていたのも、一種の気取りだったような気がしてきた。というかそうだろう。試作を見せるというところにこだわり、「読むひとをたのしませたい」という信条を外れて、契約の手段にしては元も子もない。つーか、ブログ記事の一部として書いたのに、小説オンリーのPV数を気にしているのが間違いすぎる……。試作であろうと、「自分ならどういうものが見たいか?」「自分はどういうものを発信したいか?」という点に戻って、“自分”を構成する文体の一部として組み立てていくべきだった。それなら、いまこのブログのこの記事がPVを稼ぐ気が0に近いのと同じように、作品のPV数を気にして気を病ませることはなかっただろう。

 作品制作に当たって、「自分が描きたいものを描く」というよりは「自分の模倣を紹介する」という部分が先行していたのが、今回の不和の原因ではないかと思える。すると、これはゴーゴリの『肖像画』で語り手の父親がどうしても消したがっていた“肖像画”とまったく同じじゃないか……と、ふと気づかされた。

「まじめで、おちついた気持ちは、世俗の、どんなわくわくするような気持ちよりも何倍もすぐれている、創造することは破壊することよりも何倍もすぐれているのだ、天使は、ただその明るい魂の清からかな無邪気さで、悪魔のもつ無数の力と傲れるその情念に何倍もたちまさっているのだ、」
ニコライ・ゴーゴリ肖像画』横田瑞穂訳)