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こい(@gyaradus)のブログ

【北村薫】『秋の花』――2022年5月に読んだ本について

 5月に読んだ本からとくに気になった5作品の紹介。スティーヴン・キングをはじめ、「小説を書きたかったらとにかく小説を読むことだ」という作家は多いんだが、読んでたら書いているものについて自信をなくしたり、修正を加えたくなったりするのはあるある。


1.『牧師館の殺人』(アガサ・クリスティー

 ミス研《リーズニング・クラブ》の5月の課題本。前回(『ナイルに死す』)に続いて、「ミスリーディングの仕組み」が話題の焦点となった。その中で指摘されたのが、「未回収の伏線」や「名探偵の特権」といった“お約束”を利用した「読者に先読みさせる」手法だ。1月の『ミザリー』の読書会でも「ミステリと陰謀論の親和性」の話題がなされたが、自分の力でたどりついた(ように見える)真相というのは、労力をかけて作った作品のような感覚があり、手放し難くなる。作者や「凡百の読者」を出し抜いた快感が、堂々と貼られた伏線を見逃させてしまう。クリスティーは、この感覚をミスリーディングに用いているのではないか、ということだ。ボルヘスの「ハーバート・クエインの作品の検討」で語られた「創造する喜びの錯覚」とつながるところも多い。


2. 『社会契約論』(ジャン=ジャック・ルソー)

 イスラム教の五行のひとつであるザカートは、困窮者にたいする義務的な寄付だ。「経済的弱者を支援する」という行為にはなにやら道徳的に善い雰囲気があるが、じつはこれには上から下へ富の流れをつくることで極端な金持ちをつくらなくするという実利的なシステムが内包されている。なぜそれが実利的なのかといえば、一部のものに権力が集中してしまうと、社会のシステムへの脅威となるからだ。ルソーはホッブズと同じく国家をひとつの大きな生命体のようにとらえて、立法権を国家の〈心臓〉とたとえた。国家が生き物のように死ぬのは、これが個人に奪われたときである。国家の寿命を伸ばすには権力の暴走をふせぐ仕組みが必要で、「平等」や「自由」や「正義」といった“いい感じの概念”は、共同体を維持するために必要な仕組みなのだとルソーは主張している(と解釈できる)。現代でも、「正義の逆はまた別の正義~」と『パワポケ7』の黒野博士のセリフをキャッチフレーズ化してしまう前に、このあたりのことを考えてみたほうがいいかもしれない。しかし、「国事について、誰かが『それがわたしに何の関係があるのか』と言いだすようになったら、すでに国は滅んだと考えるべきなのである。」という一節は、昨今、見逃せない凄みを持っている。


3.『サド侯爵夫人』(三島由紀夫

 三島由紀夫が男女の仲について書いた作品は、『美徳のよろめき』だとか、いくつか読んでいるはずなのだが、サン・フォン伯爵夫人のサド侯爵についての発言を読んでいたとき、頭に浮かんだのは『仮面の告白』だった。三島本人をモデルとしているであろう語り手は、汚物にまみれた汚穢屋や、戦場に向かう兵士、矢で刺された『聖セバスティアンの殉教』の絵画に自己投影し、ある種の憧憬をおぼえる(既読の閲覧者は知っているだろうが性的な意味も含んでいる)。サン・フォン伯爵夫人は、ミサの祭壇になっていたことを思い出しながら、「アルフォンス(=サド侯爵)は私だった」「アルフォンスにいじめられている他の女たちこそアルフォンスだった」ということばを放つ。このシーンが、「マゾヒズム」や「自傷行為の代償」のような観点で『仮面の告白』の上記シーンにつながるように思えるのだ。ルネの夫への貞節さも、このような「危険な存在」への憧憬があるんじゃなかろうか。


4. 『秋の花』(北村薫

 地味になりがちな話をどう盛りあげるか、文学趣味の要素をどのように作品に落としこむか、といった作品制作での悩みを解決する糸口を北村薫の作品から見つけ出すことにした。真相を知った上で、冒頭のなにげないような部分を見た瞬間、声を上げてしまいそうになった。『空飛ぶ馬』の「織部の霊」の書き出しについて以前すこしブログ内でも触れたが、作品に端から端まで一貫性を持たせておく、という意向をこういう部分から感じ取れるとうれしくなる。一方、若い友人2名の不運な事件を起点とした物語や、まじめな女子高生がチャンバラ遊びをするといったような謎の魅力の牽引力を見ると、こういう絶妙な構図を再現することのむずかしさを再認識させられる。ラストシーンの円紫さんの「物語」に関する意見も印象的で、だいぶいい刺激になったが、作品制作における課題は増えてしまった……。


5. 『ガラスの仮面』(美内すずえ

 作品の意匠に「仮面」と「演劇」を据えようということで、なにか拾えるネタはないかと手に取ってみたが、抜群におもしろい作品だった。現在(これ書いてるの7月上旬だけど設定上は5月末です)、文庫で4巻まで読んだが、冒頭からマヤの「物語」にたいする強烈なファンダムに一気に引きつけられた。ドラマに無我夢中で食いついて、その翌日にはセリフを完全におぼえて真似をしてみせる姿。気絶するまでのラーメンの出前。そこから月影先生の監禁および腹パンのパンクなレッスンを受けて、40度の熱を出しても舞台続行。こんなの死人でるし、現実世界のひとは真似しちゃいけないし、月影先生を逮捕したほうがよいのだが、この作品全体にあふれる狂気にも近いような「熱」が見ていてたまらない。それでもってこの「熱」が伝染していくのがいい。生意気なアイドルがマヤの一般通行人にかける周到なレッスンを見てドン引きした後、本気でやらないと映像には出られないとショックを受けるシーンが、とくに好きな場面だ。さっそく続きを追って読んでいこう。



 その他5月の活動

 5月中は高校古文と高校日本史を中心に勉強を進めていった。日本史Bは高校時代にマーク模試で9割近くとった(けっきょく世界史Bと倫理、政治・経済で受験したけど)こともあってそこまで苦手意識はなかったのが、いざ復習してみると、「えっ!? 初期荘園って10世紀までに衰退してたの!?」など、きっと真面目に勉強していた一同は驚愕するであろうレベルに基本知識がなかった。文化史についても、飛鳥時代の彫刻がほとんど頭から抜けていて、悲惨という他ない。

 いずれも石川晶康の著書で、この3つのサイクルによって知識を補填していった。「なんでこんなのおぼえなきゃならんのだ」と現役時代は思っていた多くの知識が、ただ並列されているのではなく、それぞれ密接に関わってつながっているのだとわかるとおもしろい。「大海人皇子大友皇子のいる(  )に攻め入った。」(正解は美濃)なんてのをなんできくのかと思いきや、ここが壬申の乱勝利の要所で、後の天武天皇不破関を設置したのはこのときの経験から、というようなつながりが見えてくるのがその一例だ。あらゆる用語の知識というのは、出来事の整理には都合がいい、と考えると、暗記も合理的に思えてくる。

 古文の勉強にはこちらの教材を使った。高校時代、ざっと眺めるだけで終わってしまった参考書だが、今回書かれている全事項を暗記してしまった。これまでなにげなく行っていた慣習も、ルーツを知ると物の見方が変わってくる。「なんか平安っぽいもの」だった概念が、「直衣、唐衣、帳台、簾、築地、遣水、簀子……」と、明確な印象を持って脳内に配置されていく感覚は悪くないものだ。