鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【平安文学】『枕草子』「二六〇 御前にて人々とも」──コロナから生還して見る景色

 私を苦しめていたコロナもついに去り、10日間ぶりに外出することにした。
 高校数学の学参を片手に、舗装工事中の街路や、刈り取られた草木を眺めながら、近辺を歩く。曇りということもあって、空はたいした景色ではなかったが、それでもひさしぶりの自然風景は見ていてたのしい。
 自販機で購入した麦茶をベンチで飲みながら、「記念になにか本でも買うか……」とぼんやり考え、頭に浮かんだのが、以前行きつけの書店で見かけた『枕草子』の上中下巻だった。

 もともと『枕草子』にはあまりおもしろい印象を抱いていなかった。学生時代、『日本の古典をよむ』シリーズで抄訳を読んだが、「身近なものへの小並感をあれこれ並べてるだけ」という俗に流布してそうな印象を出ることはなかった。この本の文句に使われている「エスプリ」という言葉にふさわしいのは、吉田兼好の『徒然草』のほうではないかと思えた。とうぜん、『方丈記』のような興味を引く思想性があるわけでもない。加えて、紫式部によるネガキャンを食らってもいた。

 艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ。
(紫式部紫式部日記』より)

 そうそう。わかりみが深い。読書ブロガーかなんかが「超のつく本好き!!読書中毒!!」みたいなうさんくさい自己紹介をしながら、ブックオフの100円ワゴンに積まれてそうな本を、「ヤバすぎるぞ○○!!」「マジかマジか!!」と称賛。ひどいものだと本の内容にすら触れていないことがある。こんな風になんでもかんでもごてごてと飾りつけたことばで騒いでいては、空疎さだけが増していくというものだ。(べつにこのブログのアクセス数がすくないことへの嫉妬ではない。)

 とまあ、激ウザブロガーと同列に扱ってしまっていた『枕草子』だが、今回買ってみようかと思ったのは、ここ最近古文の勉強をしてすこしは解像度が上がったんじゃないかと思えたことに加え、理屈抜きに身の回りのものをたのしむポジティブな感じが、病み上がりにはいい栄養になるんじゃないかと考えたからだ。
 そして、本屋さんについた。どこかの空気の読めない野郎がすでに上巻を購入済みだったので、下巻だけ買った。

 書店の本棚にぽつんと残った『枕草子(中)』を後にし、本をパラパラとめくりがてら帰宅する。

雲は白き。紫。黒きもをかし。風吹くをりの雨雲。明(け)離るるほどの黒き雲の、やうやう消えて、白うなりゆくもいとをかし。「朝に去る色」とかや文にも作りたなる。月のいと明かき面に、薄き雲、あはれなり。

(清少納言枕草子』)

 とまあ、こんな感じに、身の回りのものへの感想が書き記されている。これは「雲」について語ったもので、講談社学術文庫版の文庫解説によれば、『枕草子』の中でも「類想章段」といわれているパートのものだ。「わかる~」というのもあれば、「なにそれ?」というのもある。注釈を見ると学者にもわかっていないらしいものについても語られている。
 文庫解説では、平安貴族が和歌で表現した興趣や喜怒哀楽を、清少納言は散文の形式で表現したのではないか……なんてことも書かれていた。こういわれると、たのしみかたがわかったような気がしてくる。
 日常生活における感動を簡単なことばで書き留めるだけでも、その瞬間の思い出を触発する材料としては十分に機能する。「広がり、論理性、それがつむぐ巨大さ、世界をつつむ秩序との一体感……」、いつか見た空(ほんとうは「今回外出して見た雲」と書きたかったが冒頭に書いたように曇りだった……)について、あの迫力を再現できるのはわたしの記憶だけで、その印象を呼び起こすために、このような観察で得られた言葉が必要となる。
 どうにも文章を書くときは「思想性」とか「論理性」とかそういうことを意識してしまいがちだが、こんな風にいい思い出を再現するためのことばだけでも十分じゃないか、と気が楽になった。

 御前にて人々とも、また、ものおほせらるるついでなどにも、「世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、ただ、いづちもいづちも行きもしなばやと思ふに、ただの紙のいと白う清げなるに、よき筆、白き色紙、陸奥紙など、得つれば、こよなうなぐさみて、さはれ、かくて暫しも生きてありぬべかんめり、となむおぼゆる。

(清少納言枕草子』)

「世の中がクソで消えたいときでも、白い紙と良い筆さえあれば、生きる気力が湧いてくる!」という低コストさに、中宮定子も「慰められるハードル低いわね~」と笑う。こういうポジティブな感じがいい。そもそもわたしの推しユニットはポジティブパッションである。こんなポジティブな清少納言はきっとパッション系アイドルであり、『枕草子』はむしろわたしに適した本なのではないだろうか。

 いや、わけがわからない。なんで清少納言がパッションアイドルになるんだ。気楽に書くのはいいが、でたらめすぎるだろ……。

 


 今回、『枕草子』を読む前に、歩きながら頭に浮かべていた作品は、H・G・ウェルズの「盲人国」で、日本の古典文学どころかイギリスのSF小説だった。

 盲人しかいない暗闇の国に迷いこんだ主人公は、当初、「世界の構造」について見当違いな意見を考えまくる盲人の住民たちをバカにして優越感に浸るが、すぐにそれが無意味であることに気づく。
 盲人の国では、視覚があるということは何のマウントにもならない。だれもそんなものが存在していることは知らないのだから、いくらそれを持っていると主張したところで、特権を得ることはできないのだ。暗闇に慣れていない主人公はうすのろそのもので、たんなる頭のおかしい人間扱いされてしまうにすぎなかった。そして、盲人の社会で生きるために仕方なく、「そんなものは持っていない」と主張せざるを得なくなる。
 物語の終盤で、主人公の「眼」は頭をおかしくする腫瘍として、善意の住民たちによって切除されてしまいそうになる。じっさい、この盲人の国で暮らすには必要のないものだが、主人公はそれを守るため、決死の思いで逃走することになる……。
 この作品のラストシーンが、わたしはとくに好きだ。なにかしらのファンダムの内に身を置いていると、「感動」や「○○が好き」といった情念をマウントの道具にしてしまいがちになる。「私はこの作品を○○回見た」とか「私はこのコンテンツに△△円注いだ」とか、「私はこんなに高尚な作品をたのしんでいる」なんてものが、そうした例だろう。だが、なにかが好きだという情念は、そもそもそれが存在しているだけで、自分にとって価値があるはすだ。なによりも大事なのは、自分の感性だということをつねに忘れずにいきたい。