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こい(@gyaradus)のブログ

【チャンドラー】『ロング・グッドバイ』──こちらが病んでるときはだれも声なんてかけてくれない

 ここ最近、精神が疲弊しきってしまって、気晴らしにポケモンのランクマッチをやるくらいしかできていない。いちおう目標の3桁に到達したが、それでなにかが変わったというわけでもなく、周囲の人間たちの無関心ぶりが確認できただけだった。

 ときどきSNS上で「病み」を吐露するひとがいる。そういうひとにはいちおういいねつけるなり、雑にリプするなりはしてるんだが、こちらが似たような状況になっているときに、ほかのだれかになにかしてもらえるかといえば、NOだ。大多数の人間は、自分の中にある不快な記憶の回路がさらに増えようとするのを嫌がり、できる限り距離をとろうとする。病みに感染しないため、病んだ人間は病んだまま放置する。深入りは危険。これぞ世の常道だ。

白服は私の顔を見てにやっと笑った。「お客さん、人がいいね。俺だったら、そんなやつ道ばたに放り出してとっとと行っちまいますがね。飲んだくれと関わり合うと面倒をかけられるだけです。何の得もない。俺にはね、こういうことについちゃひとつ哲学があるんです。このとおり弱肉強食の世界だ。ボクシングで言えば、人はなるたけクリンチに逃げて、いざというときのために力を蓄えておかなくちゃ」

(レイモンド・チャンドラーロング・グッドバイ村上春樹訳)

 あーあ、だれも助けてくれないのか~、と一度人間不信のサイクルに陥ると、どんどんと他人とのつながりがなくなって(つまりはドン引かれて人が離れて)いき、「病み」が肥大化していってしまう。だから、冗談めかしたり、時間を置いてみたりしてはぐらかしながら、なんとか時期が過ぎるのを待つしかない。そもそもみんなふつうに自分の人生を生きているだけなのに、過度ななぐさめを期待することが、精神的にまずい兆候なのである。

 

 わたしの中で、人間の“孤立”を象徴してるのは、『ロング・グッドバイ』に登場するテリー・レノックスだ。初登場時、酔いつぶれたかれが高級クラブの車中で汚れた犬のように放置されていた原因も、かれがある種の「病み」を放っていたからなのだろう。
 この作品を通して私立探偵のマーロウがかれを助ける理由は、もともとマーロウ自身にもわかっていなかった。1章の末では、白髪とか、頬の傷とか、それらしい要素を頭に浮かべていたが、それらはどれも本質的な部分ではないとレノックスとの会話を通してわかってくる。なにがマーロウをかきたてるのか、というと、やはり中盤での警部補バーニー・オールズとのやり取りが核心なのだろう。

「きっと偽札さ」とオールズは潤いのない声で言った。「もっともそんな高額紙幣の偽物を造るやつもいるまいがな。それで今のたわごとの要点は何なんだ?」
「要点なんてあるもんか。ただ私はロマンティックな心を持っているというだけさ」

(レイモンド・チャンドラーロング・グッドバイ村上春樹訳)

 

ロング・グッドバイ』のマーロウとレノックスの関係性を大人と少年に置き換えた作例として、ロバート・B・パーカーの『初秋』がある。こちらは比較的読みやすい文体なので、チャンドラーは重すぎる……というひとにもおすすめしやすい。そういえば、ロバート・B・パーカーの作品に登場する私立探偵スペンサーは、『ロング・グッドバイ』に登場する作家スペンサーが名前の元ネタなのだろうか……(リュウ・アーチャーが『マルタの鷹』のマイルズ・アーチャーを名前の元ネタにしているように)。