鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【モーパッサン】『脂肪のかたまり』──鬱な話は鬱な気分をたのしむためだけのものか?

 「言葉フェチ」だの「読書中毒」だのと自称しているブロガーが叩かれている。《鬱漫画ランキング》なるものを発表して、その推薦文に「大嫌い」だの「焼却処分にしろ」だの嫌悪感を表した文章を添えたことで、反感を買っているようだ。
 ツイッターでバズる推薦文にはだいたい共通した特徴がある。「大大大大大傑作すぎて気持ち悪い声が出た」だとか「読み終わった後バン!バン!とベッドを叩きながら作者の名前を呼び続けた」だとか、いかにも熱がこもったように誇張した表現で興奮や感動が表されているのがそれだ。このブロガーもバズることを狙う人間らしく「鬱漫画」なるテーマとしてのすごさ(?)を強調するためか、「嫌悪感」を誇張して前面に押し出している。
 こういう推薦文の目障りなところは、短い時間で眼を引くため、紹介者の「感情の動き」ばかりが誇張されて、作品自体の独自性がまったく伝わらないことだ。たとえば1位となった『ブラッドハーレーの馬車』(沙村広明)の紹介文。「人の心にダメージを与えるためだけに存在する」だの「邪悪さを煮詰めた」だのといったキャッチコピーが並べられているだけで、『ブラッドハーレーの馬車』がどういう話なのかなにひとつわからない。これでは5ちゃんねるのブラックSSのような露悪メインのヤマなしオチなし作品と勘違いされてしまうんじゃないか。

 『ブラッドハーレーの馬車』では《パスカの祭り》という少女陵辱の催しが物語の中心に配置されている。ブラッドハーレー家の養子として引き取られ、この催しに参加させられる少女たちはほぼ確実に暴力で死んでしまうのだが、ブラッドハーレー家の協力者や祭りの参加者以外はこの事実を知らない。孤児院の少女たちは、富豪のブラッドハーレー家の養子に選ばれたら幸せな生活を約束されるとすら考えている。グロテスクな世界観だが、オムニバス形式でショッキングな1話目からすこしずつ作品世界の裏側が明らかになっていく構成は、ミステリ的な興味を引く。読者だけが知る「破滅」の概念は、登場人物たちの日常のやり取りに緊張感を持たせ、結末での喪失感は、それらの幸せをかけがえのないものにする。ときに囚人や監視員といった加害者サイドの人間たちの中に善意が芽生えることもあり、かれらが不条理な世の中に抵抗する姿には、美しさすら感じられる。
 エログロ志向自体はありそうだし、どのストーリーも後味がいいとはいえないから、「鬱」というラベリングをすること自体はできるだろうが、作品紹介として「人の心にダメージを与えるためだけに存在する」なんて書くのがふさわしいかといえばそんなことはない。べつにこの作品は嫌悪感自体がおもしろさの軸になっているわけではなく、あくまで《パスカの祭り》の存在から生じる人間ドラマにスポットライトが当てられている。
  そもそもの話、ホラーものの「恐怖」や本格ミステリの「カタルシス」に比べて、後味の悪い話の「後味の悪さ」(鬱?)というのは、その感情を引き起こすことが作品のいちばんの目的になっているのかといえば微妙なところだ。このブロガー氏は作品が「嫌悪感」を引き起こすことにおもしろさがあると判断して(てかほんとうに読んでるのか??)あのような文章を選んだのだろうが、作品が嫌な感情を呼び起こすからといって、それを感じさせること自体が作品の魅力の軸とは限らない。

  『脂肪のかたまり』(ギー・ド・モーパッサン)は娼婦のブール・ド・シュイフがいじめられるありさまにぞくぞくすることをメインとした読み物だろうか。普仏戦争プロイセン軍に乗っとられたルーアン乗合馬車の中、ブール・ド・シュイフは娼婦だということでほかの乗客たちから冷ややかな眼を向けられていた。それにも関わらず、愛国心の強い彼女は、バスケットに入った食料を分け与えて、かれらを空腹から救う。その後、乗合馬車プロイセン軍によって足止めを食らうことなった折も、ブール・ド・シュイフは、敵国プロイセンの士官に身を差し出して、ほかの乗客たちを救い出した。しかし、助けられた人間たちは、感謝の気持ちひとつ持たない。それどころか平気で自分の身を差し出したことにたいして軽蔑した態度を取る。嫌がる彼女に自己犠牲の精神を説き、プロイセン軍に身を売るようにうながしたにも関わらずだ。ブール・ド・シュイフはおもわず悔しさに涙を流し、すすり泣きの音が続く中で物語は幕を閉じる。
  『脂肪のかたまり』は、このように救いのない話だが、作品が引き起こす「嫌悪」自体を娯楽としてたのしめるかといえば、そうではない。というか、べつに読んでも、気持ち悪い声が出たり、身体が動き出したりするような感動を与えてくれる作品ではない。しかし、頭の中にある扉がひとつわずかに開き、そこから冷たいすきま風が入りこんでくるような感覚があった。そして、本作を読んで以来、わたしはすくなくとも自己犠牲を賞賛する人間を信用しなくなった。こういった感覚を与えてくれる作品が世にはほかにもある。カフカの『変身』、ドストエフスキーの『悪霊』、『若きウェルテルの悩み』、そしてモーパッサンを読むきっかけとなったパトリシア・ハイスミスの『11の物語』はそうした作品だ。
 究極のところ、作品は個人個人が好きなようにたのしめばいい。今回の件をきっかけとして『ブラッド・ハーレーの馬車』やほかの鬱漫画(?)を手に取る読者もすくなくはないだろう。しかし、「鬱」がどうとかいうラベリングされた成分だけがおもしろさのすべてではないし、おもしろさは心動かす興奮がすべてではない。作品がぞんざいに扱われたときに怒ることができたなら、そのひとはフェチでも中毒でもなくても、その作品にとっていい読者だろう。

 

 モーパッサンの短編集『口髭・宝石』に収録されている「藁椅子なおしの女」は、『脂肪のかたまり』とよく似たつくりとなっており、同じく後味の悪い話だ。談話形式であるから、ラストシーンに聴衆の反応が配置されているのだが、そのひとりである老婦人の物語を締めることばによって読後感がずいぶん異なるものとなっている。モーパッサンの「こう感じていてほしい」という祈りがこめられているように思えた。