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こい(@gyaradus)のブログ

【ショーペンハウアー】『読書について』「著作と文体について」──「流麗な文章」よりも深いことをいうためにはどうすべきか?

 学研のテキスト『ニューコース参考書 中学国語』を使って日本語を勉強している。日本語の文法の入門書として手頃な本をあちこちで探し回った結果、これがもっとも使いやすいと判断した。文法事項を基本から説明してくれており、体系的に理解できる。助詞・助動詞に関する細かい分類やそれぞれの意味の概要が載せられているのもありがたいところだ。「あんた中学生レベルなのか……」と呆れる読者もいるだろうが、わからんものはごまかし続けていても仕方がない。
 世に発信したい考えが、頭の中にいくつもある。しかし、その多くは、思いつきの範疇を出ていない。ぐにゃぐにゃした不定形の落書きとなって、紙束の山となっている。他人に見せられる形にするには、適した骨組みを描いて、そこからさらに細部を書きこんでいく必要がある。自分が扱うことばについて理解していないのは、人物画の髪の毛先を描きたいにも関わらず、自分が使っている道具が絵筆なのかクレヨンなのかわかっていないのと同じだ。もしそこでクレヨンを使ってしまえば、毛先はいびつな形となり、全体の均衡も乱されてしまう。わたしは数々の下書きを、きめ細やかな絵として完成させたい。

 また真の思想家はみな、思想をできる限り純粋に、明快に、簡明確実に表現しようと努める。したがってシンプルであることは、いつの時代も真理の特徴であるばかりでなく、天才の特徴でもあった。似非思想家のように、思想を文体で美々しく飾り立てるのではなく、思想が文体に美をさずけるのだ。なにしろ文体は思想の影絵にすぎないのだから。不明瞭な文章や当を得ない文章になるのは、考えがぼんやりしている、もしくは混乱しているからだ。
(アルトゥル・ショーペンハウアー「著作と文体について」鈴木芳子訳)

凡庸な脳みその持ち主の著作が中身がなく退屈なのは、かれらの語りがいつもいいかげんな意識でなされる、つまり書き手自身、自分の用いた言葉の意味をほんとうにはわかっていないせいかもしれない。かれらは習い覚えた語、出来合いのものを採用する。だから一語一語組み立てるというより、むしろきまり文句(紋切型の言い回し)をつなぎ合わせる。 書き手の明確でくっきりした思想が浮かび上がってこないのは、そのせいだ。すなわち、かれらには自分の明快な考えを打ち出す、いわば型押し機がない。その代わり、不明確であいまいな言辞を網状にはりめぐらせ、よくある常套句、 使い古された言い回しや流行語を用いる。そのため、かれらの薄ぼんやりした著作物は、使い古しの活字を使った印刷物のようだ。
(アルトゥル・ショーペンハウアー「著作と文体について」鈴木芳子訳)

「著述と文体について」はショーペンハウアーの著作の中で感銘を受けたもののひとつだ。文体に血を通わせるためには、ことばひとつひとつに「これでなくてはならない」という必然性を持たせなければならない。歴史的に規定されてきたことばの意味や、体系化された構造を知らずして、それを行えるだろうか。まずは、自分が自分自身の文章の分析者になる必要がある。小説の感想で、「流麗な文章」「硬質な文章」「無駄のない文章」のようなぱっと見の印象をあげたものをよく見るが、ここよりさらに先に進むには、言語自体への理解を深めなければならない。

占筮者が自分の運命を占い得ないのと同様に、脳髄が脳髄の事を考え得ないのは、当り前の事として誰も怪しまなくなってしまっている。
(夢野久作ドグラ・マグラ』)

 ふだん日本語を使って思考をアウトプットしている人間が、表現媒体である日本語自体について考えるのはむずかしい。直感でとらえてしまっている部分は、どうしても見逃してしまいがちになる。
 役立つ方法としてあげられるのが、「異なった文脈上の日本語」に触れることだ。ほとんどのひとが経験的に知っているだろうが、古文や翻訳文はすらすら読むことがむずかしい。文化的な差異、文章の構造の違い、そういったふだん目にする言語との距離が、経験的につくられてきた数々の読み飛ばしの技術を阻害するためだ。そこで字面を追う上で「わからない」という場面に幾度となく遭遇し、文章にたいして注意を払わなければならない場面が増えてくる。自分がこの情報を理解する上で、どういった文脈を認知する必要があったのか。それがわからなかった理由は何なのか。どうしてこのような表現方法を選ぶ理由があったのか。これが、文章自体について考える絶好の機会となる。
 去年、高校古文を勉強したことによって、ふだん使っている日本語を「読めないもの」として感じることができたのは、大きな収穫となった。古文の内容を読み取る上で必要となる、「き・けり」や「たり・り」のような日常とは違ったことばの解釈、活用と接続のほか各品詞の知識があってはじめて行える文の成分の解体。この経験によって、ふだん自分が使っている言語自体を、論理的な体系の中にあるものとして意識できるようになったためだ。
 それにしても、ショーペンハウアーの文章はどこをとってみても脳に突き刺さるように鮮烈だ。情報を伝達することに関しての作者の配慮が端から端まで行き届いているからだろう。「著述と文体について」では、恣意的・抽象的な表現を多用する作家への批判が述べられているが、その批判自体が、それらとは対照的な精緻な文章で形作られている。こういう文章を書きたいものだ、と『読書について』を読み返すたびに思わされる。