鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【ショーペンハウアー】『幸福について』──すぐに「いいね」されないほうが逆によい?

 いま読んでいる連載マンガの最新話の評価がどうも芳しくない。コメント欄を見ると、「オチがわからない」「絵の雰囲気でごまかしている」など、作品の構造を把握できていない意見が多く見られる。
 これでは作品が浮かばれまい、と思って、わたしとしては珍しく300文字程度の作品解説を投稿した。これで評価を改めるものも出てくるだろう……と想像して。翌日。いいね数──“1”。この1いいねは自分で自分にいいねしたものなので、だれもいいねしていないことになる。ちなみにこの回のベストコメントは同じくわたしが投稿したもので、読んでいる間に2秒くらいで思いついたつまらんギャグだった。

 かれらはハトのようにおとなしく、怒りがない。だが怒りのない人間は、知力もない。知力はある種のとげとげしさ、鋭さをはらみ、そのため毎日、実生活、芸術や文学で無数の事柄にひそかな非難やあざけりをおぼえるが、それこそ愚かな模倣を阻止してくれるものだ。
(アルトゥル・ショーペンハウアー「著述と文体について」鈴木芳子訳)

 オオオオオオオオオアアアアアアアアアア!!!! コロス!!!!!!
あーーーくそもう、どいつもこいつも、こういう風に解説を書いてもまともに理解を示さない。その一方で「考察」というラベルを貼られて出回るクソしょうもないトンチキはあちこちで沸いてくるからやってらんねえ。ああいうのはまともにものを考えないボケを驚かせるために考えの筋道を要さない(冷静に考えればおかしい)想起を利用したものがほとんどだ(〔ポケモンSVのセイジ先生は元ロケット団。根拠:ペルシアンが手持ちにいるから。髪型が悪者っぽいから。〕など)。
 いいねの数はあくまで解るひとの多さを示したものであり、意見そのものの価値を示しているわけではない。ランクマ強者御用達のキョジオーンがハッサムより使用率が低いのも、キョジオーンがダメージ感覚と構築読みを要する上級者向けのポケモンであるためだ(あと戦法が陰湿でキモい)。
 しかし、ルソーのいうように世論は強さだ。『動物農場』に登場するブタの独裁者ナポレオンは、自分の地位を確立するため、政治思想の理解できないヒツジたちを利用した。「四本足はよい、二本足は悪い」ということばをおぼえさせられたヒツジたちは建設的な会議を次々と邪魔し、動物農場はまんまとこの権威のことしか考えてない役立たずのブタ野郎に支配されてしまった。わたしの意見はなんの世論も味方にすることができておらず、弱い。それが不安を呼び起こしてしまう。自分の見る眼は良いものだという確信はある一方、ソクラテスのようにそれを主張するために命をすり減らせる強さはあるかと問われれば、そんなことはない。わたしは必要とされない役立たずだ……。

 こういう暗澹とした気分のとき、わたしはショーペンハウアーの著作を読む。権威を見下しながら権威を欲したひとの典型例だから、なんというかこういうときにやたらこころが共鳴する。大衆の虚構性に対する嫌気、自尊心とこだわりの強さ。老年まで評価されなかった人物だけあって、この手の鬱憤が文体からにじみ出すようだ。ショーペンハウアーの自戒は、わたしにとっての自戒にもなりうる。

 不朽の名作であるためには、多くの美点がなければならない。そのすべてを把握し、評価する人はなかなかいないが、それでもつねに、こちらの人物からはこの美点、あちらの人物からはあの美点を認められ、尊重される。そのとき、そのとき異なる意味合いで尊重され、決して汲みつくしえず、たえず人々の関心がうつろう中で数百年に わたって作品の名望が保たれる。
(アルトゥル・ショーペンハウアー「著述と文体について」鈴木芳子訳)

 内容を含んでいれば含んでいるほどそのすべて理解することは困難になる。だからこそ、シェークスピアやゲーテは現代まで残っているし、新たな読み方が開拓されつつある。すぐに理解されないのは、その場その場での同意を得ることをよりも、むしろ歓迎すべきことかもしれない。
 どうも視野が狭くなりすぎていたようだ。たかが1日、コメント欄で意見が評価されなかったからといってなんだろう。そんなのは当たり前のことで、自分の力のなさを嘆くに足るものではない。たんにいいねをされなかった。それだけのことだ。わかるひとにはわかるし、よくわからないものとして受け取った人間相手でも意識のどこかに働きかけるかもしれない。そもそもわたしが評価されている評価されていないの話でいえば、読んでいる間に2秒くらいで思いついたつまらんギャグがベストコメントとなっているのだから、いちばん評価されている。世論を味方につけていないどころかナンバーワンだ。このつまらんギャグは、じつはつまらんギャグではなく、日々の積み重ねで磨かれたわたしの審美眼があってこそ成せた、研ぎ澄まされたギャグだったのかもしれない。

 それゆえここで、何事によらず気取ったりしないように警告しておこう。気取りはいつも相手に軽蔑の念を起させる。第一に、気取りは欺瞞である。欺瞞自体、恐れに基づくものなので臆病者のすることだ。第二に、気取りは、実際の自分ではない人間に見られたい、したがって実際の自分よりも良く見られたいために、自分で自分に永劫の罰の判決を下すようなものである。なんらかの特性を気取り、それを自慢するのは、そうした特性を持たないことを自白するようなものだ。
(アルトゥル・ショーペンハウアー『幸福について』鈴木芳子訳)

 傲慢になれば、眼が曇り、物を見る力も創作する原動力も失われる。もともと大事なのは、解説が評価されるかどうかではなく、解説を行ったこと自体だ。たいした能力もない状況でこのように偉ぶっていれば、そのうち自分に都合のいい解釈しか選べないようになり、停滞の道へ進むことだろう。
 世評に一喜一憂していること自体、わたしがまだまだ実力不足である印だ。道を失うことなく、堂々とかまえ、粛々と創作に励む。価値はそうしているうちについてくるものだ。

【トルストイ】『戦争と平和』──だれもが“物”になりたがっている

 心に虚無がおとずれることがある。なににも集中できず、頭に浮かぶのは、広がる白地にΩ(空っぽな頭)のマークが記されているイメージだけ。とりあえず外を出歩いて、名前を知らない雑草が無秩序に生い茂っている様子を眺める。黒ずんだ雲が広がっている様子を見て、あれが水の粒であると思いつつ、ポケモンのミュウの頭に似ていると考える。気づくと、足は海に向かっている。
 毎日、本を読んで、ショート動画を眺めて、情報の奔流の中にいる。脳は数々の冒険をしているが、わたしの身体はじっと制して小さな空間を見つめ続けている。1000円札1枚ていどの面積しか有していない“これ”が、わたしの世界のすべてだ。

 夕刻の薄暗さの中、潮風でぼろぼろになったベンチの背もたれを、手で掴んでみる。押し返される感触があった。それとともに、そこに、それがあることを感じられた。岸辺まで歩いて、真っ黒な木片が波に打たれている様子を見る。『嘔吐』(サルトル)の主人公なら吐き気を感じそうな光景だ、などと思いながらしばらく薄闇の中、ただ波音を聞いていた。ふと、土の感触を確かめたくなり、後先考えずに波打ち際まで行って、湿った土を掴んだ。当然すぐに波がやってきて、わたしの靴と、靴下と、ジーンズの裾がぐしょ濡れになった。足の裏に張りついた水の気持ちの悪い感覚と、べっとりと左手についた泥の重さが、ようやく我に返らせてくれる。

この万象の海ほど不思議なものはない、
誰ひとりそのみなもとをつきとめた人はない。
あてずっぽうにめいめい勝手なことは言ったが、
真相を明らかにすることは誰にもできない。
(オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』小川亮作訳)

 8月に志賀直哉の『暗夜行路』を読んで以来、近場の海に訪れることが多くなった。志賀直哉の作品群に描かれる、人間の消え去ることのない孤独。それに受け入れるためのヒントが風景との調和にあると感じたためだ。
 作家仲間に利用され、妻の不貞を知り、自分の人生が嘘から始まっていたことを知った時任謙作は、鳥取の山中に向かう。そこで人力車を引く老人と出会い、かれがそのロジックの中で何十年も過ごし、過去も未来もなく、風景と一体化している様子に憧憬をおぼえる。

老人は山の老樹のように、或いはむした岩のように、この景色の前に只其所に置かれてあるのだ。そして若し何か考えているとすれば、それは樹が考え、岩が考える程度にしか考えていないだろう。謙作はそんな気がした。彼にはその静寂な感じが羨ましかった。
(志賀直哉『暗夜行路』)

 人力車引きの老人は、動物のように自然の摂理にしたがって、ただ生きている。これはもちろん謙作が勝手に老人の人生の一面を切り抜いて考えたことにすぎないが、その静かなインスピレーションは、神聖なものすら感じさせる。
 “孤独”は、人間関係という虚構の中で相対的に現れる。物としてのわたしにもどってみれば、ただ生命活動をしているだけで、目前にある恐怖とは無縁なのだ。自分を苦悩から解き放つためには、“物”に回帰する必要がある。あらゆる形の自傷行為は、ときには死に至ることもあるそれは、“物”でありたいという欲求の表れなのではないか、という考えが、頭に蘇りはじめる。

何ひとつ無い、在るのは無いものだけだ。
(ウィリアム・シェークスピア『マクベス』松岡和子訳)

生命は、発展のすべての迂回路を経ながら、生命体がかつて捨て去った状態に復帰しようと努力しているに違いない。
(ジークムント・フロイト「快感原則の彼岸」中山元訳)

 手が海水と泥を感じたとき、すべてが海に飲みこまれ、それに溶けこんでしまう感覚を部分的に感じる。こうしてわたしはほんのわずかな瞬間だけ死ぬ。波打ち際についた手の痕が波によって消される様子を見ながら、わたしは自分が部分的に死んだことを感じる。恐れもまた、葬られる。
 10月、志賀直哉の主要作品を読み終えた後、トルストイの『戦争と平和』を読みはじめた。『暗夜行路』の枠組みにはトルストイの『人生論』で語られている「動物的個我の消失」が無縁であるとは思えず、また、謙作の孤独にまつわる鬱屈に、莫大な財産とともに限りない不信を手にした青年、ピエール(※)の影を見ずにはいられなかったからだ。トルストイはどのように描いていたのか、ということが気になりはじめた。
 これまで人物ごと、シーンごとの切り口でしか語ることができなかった『戦争と平和』だが、今回、マクロにとらえることができた部分がある。この作品の叙事詩的なスケールの大きさに比して、個人はあまりにも無力だ。戦争の描写に関して『イリアス』を想起させるところもあったが、“世界”が描かれることで、個々の人間たちが個我を越えた秩序に組みこまれているような印象が与えられている。この作品の不思議と安らぐような感覚は、ここからきていて、作品構造が思想を体現しているのだな、と感銘させられた。

※  ピエール・ベズウーホフ伯爵はわたし自身に似ていると思う創作上の人物のひとりだ。かれの幼い個我から発する無謀さと愚かさ、ゾッとするような感情の爆発は、国内の「青春小説」と銘打たれている作品群よりもはるかに「青春」を感じさせる。 

目次〈文学〉

国文学

《平安文学》

源氏物語』(紫式部)

「蛍」

「幻」

「雲隠」

 

枕草子』(清少納言)

「十九 たちは」

「二六〇 御前にて人々とも」

 

その他

『紫式部日記』(紫式部)

『大鏡』(作者不明)

『更級日記』(菅原孝標女)

『成尋阿闍梨母集』(成尋阿闍梨母)

『讃岐典待日記』(藤原長子)

 

 

《鎌倉文学》

徒然草』(吉田兼好)

「第41段」

「第58段」

「第111段」

 

その他

『宇治拾遺物語』(作者不明)

『方丈記』(鴨長明)

 

(現在、自分用に平安~鎌倉の国文学の記事だけまとめてあります。その他のものは、また、都合または要望によってまとめていく予定です。)

2023/7/9 更新

【プリマジ】第7話 ツイッターが使えないのでプリマジを見てたら溶けた

 ツイッターがとうとう使えなくなってしまいました。フォロワーさんたちとの愛にあふれた交流が終わってしまうなんて悲しくてたまりませんが、わたしの人生はまだまだ続きます。とりあえずプリマジ見ながらこころを癒すことにします。

 は~~、ワンモア腹筋する甘瓜かわええ~~、まつりとみゃむのかけあいも癒されるし、ひな先と皇氏も顔を見ると実家に帰ってたような安心感がある。つーかまつりちゃんスタイルよすぎ~~えっっ!!!!😍🔦(←サイリウム)「ah!!デリシャス!!やっぱマツリチャンは最高ダネ……」
 もはや感想ではなくただの感情の垂れ流し。しかしツイッターはこうした緊張を解いた感情の受け口になってんじゃないかといまになって思える。なくなれば新たな場所をつくるだけ……。
 第7話はみゃむがうっかり魔法界に帰ってにゃん爺との絆を再認識する回なわけですが、こうしてみると、やっぱ安息の場は必要ですね(???)。多幸感満載の気持ちよいdream world。この回の最後の甘瓜みるきのように、わたし was 溶けtour……😊😊😊

【S・シン】『数学者たちの楽園』──2023年上半期の本ベスト10を発表!

 タイトルに書かれている通り、これといった前置きはいれずにベスト10を発表していく。

 

第10位 『ナポレオンの剃刀の冒険』(エラリー・クイーン

 ラジオドラマとして不特定多数の聴衆をたのしませる必要があった本作は、「謎が魅力的」「情報の提示が明確」「多くの人間が参加可能」と、パズラーに欲しい要素が必然的に揃えられている。形式の持つ力を大御所中の大御所から再確認させてもらえるのはありがたい限り。


第9位 『神曲 地獄編』(ダンテ・アリギエーリ)

 ダンテの根底にあるアリストレス学派の思想がこの世界を形作っているのではないか、という発想に至ると、ヴェルギリウスと歩く地獄の光景が、じつに論理的で秩序だったもののように思えてきた。時代遅れだと思っていた部分も含め、作品世界の構築において学べる部分が多い。


第8位 『徒然草』(吉田兼好

 吉田兼好エスプリまじりの警句を思い返すたび、身を正さなくては、という思いにかられる。これらがうるさいように感じないどころか、親しみをもって感じられるのは、吉田兼好自身がふにゃけた人間だったからじゃないかと今回読んで思った。劣等生は劣等生なりに精進すべし。


第7位 『チャイナ蜜柑の秘密』(エラリー・クイーン

 長らく国名シリーズの中では高い評価をしていなかった作品。しかし、『オランダ靴』、『ギリシャ棺』、『エジプト十字架』の読書会を通して「モチーフによる作品の統一」について考えると、評価が改まった。「The Chinese Orange」でどこまで作品世界を覆うことができるか。漠然としたイメージの理解から事件を解体しようとするエラリーの動きも興味深い。


第6位 『数学ガール』(結城浩

 そのジャンルの知識がない読者を導くにはどうすればいいか、ということを考えるにあたって、この作品が小説の形式になっていることは注目に値する。ミルカさん-主人公-テトラちゃんの師弟関係(?)を追っていくうちに、読者も数学に熱中するサイドに引きこまれていくような感覚になるのがいい。母関数を介して「フィボナッチ数列」が閉じた式に向かっていく第4章から、一気に世界観が更新されるような感触あり。


第5位 『最暗黒の東京』(松原岩五郎)

 この国において、物語はなんのために書かれ、どう受容されていったのか。戯作文学と政治小説を経てたどりついたこの明治中期のルポルタージュは、ひとつの答えを与えてくれるものだった。同テーマである横山源之助の『日本の下層社会』もおもしろい一冊だったが、本書は肌に迫るような迫力において、一線を画している。悪臭、痒み、疲労感、汗の味、汚水の染み、虫の羽音。文体と主観性の持つ力を印象づけられた一冊。


第4位 『寒い国から帰ってきたスパイ』(ジョン・ル・カレ

 物語にテーマを持たせようとするなら、政治を避けることはできない。愛、友情、信念……、なにを描くにしろ、そこには大なり小なり「社会への関わり」が存在する。ル・カレが見てきた戦後・冷戦期のイギリスへの憤懣は、ミステリーの形式をとっていまもまだ残り続けている。現代で物語を書いてなにかを主張したいと思うなら、まだまだ世の中にたいしての見地を深める必要があると思わされた。


第3位 『五百万ドルの迷宮』(ロス・トーマス)

2週間かけて2回読んだのは、今年逝去した原尞の影響によるもの。そして原尞のいうとおり、この作品の魅力を伝えるのはむずかしい。ウィットの効いた会話、鮮烈なシーンの数々、構図が変化する意外性……なんて定形的なことばでは、本作のおもしろさはまったく伝わらないからだ。ということで、この作品について好きな部分をひとつあげよう。この作品のキャラクターは、男も女も、数ページしか出ないモブキャラでさえも、みなもとめているものがある。そして会話のたびにそのための駆け引きをしている。そんなところだ。


第2位 『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン

 わずかな手がかりから数々の情報を引き出すシャーロック・ホームズに憧れたひとは多いだろう。あのおもしろさの本質は、一見単純に見えるものの中に、たくさんの情報が詰まっているという構図の対称性にあるのではないかと思う。エラリー・クイーンやドルリー・レーンの推理の美しさも同様。そして、本書を読むに、多くの数学者もどうやら数学の問題の証明に関して似たようなことを感じているらしい。外面はわかりやすいフェルマーの最終定理を証明するうえで、数々の歴史的なドラマが存在し、それらが解法という形でひとつの営みに組みこまれていく……。わたしが、ミステリーの美しさの本質と考えているものが、現実の数学の世界ですでに形作られていた。これを興奮せずにはいられるか。自分の求めているものを大きなスケールで明確にしてくれた一冊。


第1位 『数学者たちの楽園』(サイモン・シン


 自作にはさまざまな仕掛けを忍ばせているのだが、それを拾ってもらえることはほとんどない。それどころかふだんどういうものを作っているのか理解されることすら稀で、しばらく完全に拗ねてしまっていた(自作解説するとおどろいてもらえるがそういうのは気づいてほしいのだ)。しかし、『シンプソンズ』の制作者たちが、一般の視聴者たちには到底理解できないような高度なネタを作品の隅々にまで盛りこんでいることを知って、襟を正した。大事なのは、作者が必要だと思ったロジックがどれだけ作品世界で一貫されているかだ。直接理解されるかどうかはともかくとして、こうしてつくりこみはけっして無駄にはならない、と思い直した。

 以上。年末に2023年のベスト20を発表する予定(とくに語ることがないので淡白な結びになった……)。

【吉田兼好】『徒然草』「第41段」──ほんとうは劣等生の回顧録?

 メモによると、5月28日に『徒然草』を読み終えたらしいが、その瞬間のことをおぼえていない。現代語訳ですでに既読済みだったし、その後もたまにちらほら読み返していたから、「これで終わった」という感触がなかったためかもしれない。
 今回原文で読んでいてたびたび思ったのが、「いっていることとやっていることが違うな」ということだった。すでに弊ブログでもなんどか取りあげているが、「第111段」では「双六は死刑並の大罪だ!」という意見に共感を示しているのに、「第110段」では達人に双六の必勝法を訊いている。「第175段」では酒を飲むことの醜悪ぶりを書き連ねはじめたかと思いきや、後半で途端に酒を通じた人間関係の愉しみについての話に切り替えている。なんというか、優柔不断だ。しかし、このように見え隠れする意志の弱さが共感を呼び、慰められるような気分になる。
 徹底したものには、いつでも恐ろしさがつきまとう。『ルバイヤート』のウマル・ハイヤーム、『パンセ』のブレーズ・パスカル、どちらも史上の天才中の天才といって過言ではない人物だが、その著書は、読んでいくうちに底冷えするような感覚が与えられる。科学者、そして神学者ゆえの論理の徹底ぶりが背後にあるためだろう。虚無や無限といった概念への「畏れ」に、無力感にも近い、暗澹たる気分にさえさせられてしまう。
 『徒然草』から伝わってくる吉田兼好の人物像は、かれらのような“極めた”人間のものではない。「ああすべきだ、こうすべき」だと考えながらいつも身を清くしようとこころがけているが、一時の欲に負けて遊びや酒をたのしんでしまう。それからさまざまな理屈を考えて自分を戒めるが、しばらくしたらまた欲に負けて時間を浪費する。そんな自分や、それと大差ない世の人間たちの矮小さを感じながら、毎日を徒然と過ごしている。厭世的な気持ちと俗な気持ちをともに持ち合わせ、世の中の愚かさをくだらなく思っている一方で、たのしんでもいる。「第188段」では、説教師にふさわしい人物になるべくいろいろな物事の稽古に手を出してしまったせいで、肝心の説経を習う暇がなく年をとってしまった坊主を例に出し、「ひとつのことを励むと良い」と述べているが、これは吉田兼好が自分自身の人生を省みて感じたことではないだろうか。

「我等が生死の到来ただいまにもやあらん。それを忘れて、ものみて日を暮らす。おろかなることは、なほまさりたるものを。」
吉田兼好徒然草』)

 

 人生は短く、いつ終わりがくるかわからない。それなのに、みなそのことを忘れて毎日を過ごしている。『徒然草』の中でもとくに印象的な「第41段」だが、これは自分自身にたいする大きな戒めだったのかもしれない。
 こうして見えてくる吉田兼好の人格は、「こうありたい」よりも「自分に近い」と思えるものだ。目指すものへの努力に専念したいのに、興味がさまざまな方向へ散ってしまう。周りは精一杯努力して先に進んでいるのに、わたしはなんてダメなやつなのだろう……となる。
 しかし、「秩序に近づきたい」という気持ちを持ち続けることはできる。失敗をするたびに教義に戻り、またすこしずつ前進していく。『徒然草』は、そうした劣等生の慎ましい営みの軌跡なのだ。
 それに美を見出すこと、それは自分自身の人生の肯定となる。

 

 人間の弱さは、人がつくり上げる、かくも多くの美の原因である。たとえば、リュートを上手にひけることなど。(そんなことができないのが)悪いというのは、われわれの弱さのためだけである。
ブレーズ・パスカル『パンセ』前田陽一・由木康訳)

 

 “極めた”人間として紹介したパスカルだが、かれ自身は、数学者ではなく、普遍的な人間であるオネットムでありたいと『パンセ』の中で述べている。

【清少納言】『枕草子』「十九 たちは」──「たちは たまつくり。」

たちは たまつくり。

(清少納言枕草子』)

 6月中に『枕草子』を完読しようとちまちま読み進めていたら、こんな文章が出てきた。たちは たまつくり。この十九段にはこれだけしか書かれていない。講談社学術文庫の『枕草子』はありがたいことに全訳注つきなのだが、現代語訳もそのまま「たちは たまつくり。」だった。語釈によれば、この「たち」が「館」「太刀」の両説あり、また「渡(わたり)」の誤りだという意見もあって、意味を断定することができなかったようだ。(※「たま」は「渡」との説ありと書いたが、見誤りだったため修正)

原は みかの原。あしたの原。その原。

(清少納言枕草子』)

 本書の解説で「類聚的章段」と呼ばれている段は、このように、なにか一定のものごとについて、そこから連想するものを「○○と△」羅列する形式をとっている(「春は曙」を思い出すひとがいるかもしれないが、こちらは「随想的章段」に分類されている)。その中でも、この「たちは たまつくり」は極端に短い。ブログタイトルに全文をそのまま載せられるほどだ。

 なにかものづくりするにあたって、「しっかりやるぞ!」「工夫するぞ!」という気概が大きくなりすぎて、なかなか手にかかれなくなることは少なくない。タスクの印象が頭の中で大きくなりすぎて、めんどくさくなるためだ。そんな気分に対して、『枕草子』の「類聚的章段」の簡素さは、なんとも見ていて気が楽になる。「たちは たまつくり。」だけで作品成立である。そのうえ、意味すらはっきりしていない。でも、いい。「たちは たまつくり」。館か太刀か渡かはわからないが、「あれいいよね……」という清少納言の気分が妙につよく伝わってくる。

 気負わず、楽天的に。思うがままに。紫式部には「浅薄」「短慮」とでも評されそうだが、たまには肩の力を抜いて書いてみたものも悪くない。と、いうことで、この記事はこのようにほんの10分ちょいでさらさらと書いたのだった。