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こい(@gyaradus)のブログ

【米澤穂信】『ボトルネック』──主人公ははなまるうどんで満足すべきだった?

 先週の読書会中、以前ブログでとりあげた「鬱漫画ランキング」の作者が「鬱小説ランキング」なるものを作っていたことを知った。会内では当初ぶっ飛んだ紹介文に注目が集まったが、しばらくすると、例によって「この中にあるこの作品ははたして鬱なのか?」という方向に話題が移っていった。米澤穂信の『ボトルネック』はその中で言及された作品のひとつだ。

 この作品の主人公は、流産に終わったはずの姉が無事に生まれ、そのかわりに自分が生まれなかった「ifの世界」を体験する。そちらの世界では自分がもともといた世界より万事うまくいっており、自分はもしや世界にとって不要な人間なのでは……という方向に話が進んでいく。
 読んだのは10年ほど前のことだ。当時は「近所のうどん屋が閉まったのがそんな大事か」くらいの印象しか持たなかった。いまは「近所のラーメン屋が火事で閉まったのは大事件だった」程度には変化している。
 読書会の参加者のひとりであるアキラさんはこの作品を気に入っていて、「十分救いの道はある」「悪い読後感ではない」という見解を持っていた。これについてわたしは同意見だ。主人公は自分を世界の停滞の原因である「ボトルネック」と評したが、逆にいえば、それは、それだけ他人の人生に大きな影響を与えているともいえる。『さよなら妖精』や『真実の10メートル手前』、「死人宿」(『満願』)などほかの米澤穂信の作品では、「他人の人生に影響を与えられない無力さ」のような感情に焦点が当てられていることがあるが、ちょうどその逆だ。心がけ次第では周囲に好影響を与えられるかもしれない可能性が示されたのは、十分救いとなりうるだろう。
 また、アキラさんは、少年時代の「生きる意味を考える経験」について触れていた。これはほかの参加者も共感を示していたところで、世の中における自分の立ち位置がまだ明瞭でない少年少女には身近な問題だろう。この作品では「ifの世界の自分に当たる人物」という比較対象の存在によって、主人公が相対化される。多くの人間は、なんらかの面において「自分よりすぐれた存在」を認識することになるが、主人公から見た姉は、そうしたものにたいする感情を浮き彫りにする役割を持っている。変則的だが、他者との関係のなかで自分について見つめ直す成長物語の形式にもなっている。
 本作のラストシーンについて悲観的な推測をする読者はすくなくない。「鬱小説」なんてハンコが押されてしまった原因はそこにあるのだろう。わたしが思い浮かべたのは、フランソワ・トリュフォーの映画『大人は判ってくれない』だった。あの映画のラストシーンでは、逃走した主人公の少年が、この先行き場のない海岸で立ちつくし、振り向いてカメラ(つまりは観客たち)に眼を向ける。「自殺の示唆」のような解釈が多くあったそうだが、トリュフォー本人によれば、「さあ、どうしますか」という観客への質問だったということだ。わたしも本作のラストシーンの役割はこれと同様のものと考えている。読者の多くは、主人公と同様に、社会生活を送る中で、目前にあるなにかしらの問題に対処しなくてはならない。それにどう向き合うかは、読者次第、ということだ。ちなみに、米澤穂信は後に『追想五断章』というリドルストーリーをテーマとした作品を書いている。

 このような作品の構成から、本作は「では主人公はこれからどう生きるべきなのか」という方面から語られることがある。フォロワーの藍川陸里さんが本作の主人公について、「姉にどうしたらそんな風に生きられるか教えてもらえばいい」と発言していたことがあった。ポジティブなとらえかただが、教えを請われた側は迷惑千万だろう。そもそもそのように他人に頼れる手段を身に着けられているなら、あんな暗い野郎にはなっていないはずだ。ではなにをすべきか。『スプラトゥーン3』だ。「社会で自分が果たすべき役割」を考えの基軸にしていることが、生を肯定するうえの足枷となってしまっている。まずはだらだら自分だけのたのしみを見つけるのがよい。コントローラーを布団に叩きつけながら役に立たない味方に暴言を吐き、管理しようとする母親にたいして「勝手に入ってくんじゃねえババア!」といえるようになる。それは“自立”のはじまりだ。健全な高校生になるにはやはりスプラが有効手段といえる。