鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【ドストエフスキー】『罪と罰』──「ファッションキチガイ」という言葉が嫌い

 問題行動を起こす人間にたいして「ファッションキチガイ」ということばが使われることがある。「ほんとうはふつうの人間なのに、わざとおかしなことをして気を引こうとしている!」くらいのニュアンスで使われているようだが、わたしはこのことばが嫌いである。
 ファッションのキチガイという概念があるのだから、とうぜんこのことばを使う人間には、ホンモノのキチガイという概念も存在している。そのように区分と比較を行って偽物(?)を貶めようとする姿勢に、なんだかその「ホンモノ」なるものへの憧憬を感じられ、「ファッションとホンモノの違いがわかっている自分もまたホンモノ」というような消極的な自己主張がなされているようにも思えて、セコくてさめるのである。
 そもそもの話、世の中、「おかしなやつ」というのはうじゃうじゃいる。電車の中でわけもなく独り言をいい続けるおじさん、アパートに集団で宗教勧誘しにくるおばさん、バズっているツイートに脈略のない自分語りをリプする謎のアカウント。このあたりの連中はどう考えたって「おかしなやつ」だろう。じゃあ、「日本人はまじで変態すぎる!ww」みたいな眉唾を喜々として見せつけてくれるひとたちが、そういうひとたちに親しみを感じるかといえば、ぜったいにNOだ。ひとが、「おかしなやつ」を高評価するとき、だいたいはアインシュタインだかダリだか赤木しげるだか、社会的に評価されてきている人物たちの奇天烈エピソードかなにかに結びつけて、自分にとって権威ある人物かどうかを判断しているにすぎない。

 

アカギ-闇に降り立った天才 2

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↑みんなアカギくんみたいに拳銃持ってるわけではないので、「こいつキレるとなにするかわからねえ~」の不良は、まじでヤバい不良だと思います。


「周囲の気を引くためにわざとおかしなことをする」「自分は特別な人間だと叫びたくて仕方がない」。もし、そんな人間がいたとしたら、そいつはすでにだいぶおかしい。「おかしなやつ」と認識されることは、そもそも集団から孤立するきっかけになり、生存戦略としては不都合なはずだ。世の人間は、そういうわけで、ちょっと周りとちがうやつがいたら、積極的に笑ったりいじめたりして、身の安全をはかっている。そうした常識的なことをせず、あえて自分を危機に落としいれている人間がおかしなやつじゃなかったらなんだというのだ。
「自分は特別な人間である」と周囲にアピールするために見も知らぬひとを殺す連中がいる。ときたま凄惨な殺人事件のニュースでその存在を知ることになるが、もともとは数ある「ファッションキチガイ」とか「厨二病」のひとりとしか思われてなかったやつもいたんだろう、と思う。『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフも、友人のラズミーヒンからは「自意識過剰なやつ」くらいにしか思われていなかったし、家族(とくに母親)からはむしろその将来を期待されていた。しかし、ある日、金貸しの老婆を殺し、一気に社会的にやばい人間のサイドに足を踏み入れてしまう。

 

「要するに、ぼくの結論は、偉人はもとより、ほんのわずかでも人並みを 出ている人々はみな、つまりほんのちょっぴりでも何か新しいことを言う能力のある者はみな、そうした生れつきによって、程度の差はあるにせよ、ぜったいに犯罪者たることをまぬがれないのだ、ということです。そうでなければ人並みを出ることはむずかしいでしょうし、人並みの中にとどまることは、むろん、賛成できない、これもまた彼らのもって生れた天分のせいですが、ぼくに言わせれば、賛成しないのが義務にすらなっているのです。」

(フョードル・ドストエフスキー罪と罰』工藤精一郎訳)

 ナポレオンのように《新しい言葉》を放つ人間は、その主義の代弁者として、既存の秩序を破壊する。ラスコーリニコフは自分もまたそのような偉人であることを自分自身に証明するために、老婆を殺した。いってしまえば、「特別な人間でありたいから他人を殺した」というのが動機であり、「ファッション」ではなく「ホンモノ」でありたい欲が肥大化し続けた結果だ。その先に待っていたのは、本質的なものは変わらないのにただ社会的にふつうではなくなってしまったことへの限りない恐怖だけだったが。
 狂気がどうとかというのも、けっきょくは数あるマウント取りの一種にすぎない。そんな果てのない精神勝利の世界に救いをもとめている暇があったら、ポケモンSVのランクマッチで順位をあげることに勤しむべきだ。

 わたしは今日、マスターボール級で2752位となった。結果がはっきりと出る世界で戦っているのである。