鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【紫式部】『源氏物語』「蛍」──玉鬘が“物語論”をきかされる相手だった理由

 瀬戸内寂聴訳の『源氏物語』6巻をそろそろ読み終わりそうなので、残る7巻~10巻を買いに近所の書店にいったが、置いていなかった。
 それではまだ下巻しか読んでいない『枕草子』の上と中を買っておこう……と思ったら、講談社学術文庫のコーナーが棚ごとなくなっている。雑学文庫のコーナーを見ると、『眠れなくなるほど面白い日本の古典』とかそういう感じの解説本は置いてあるのに、眠れなくなるほど面白い日本の古典そのものは読めないらしい。新刊一覧に目を通したが、これといって興味をひくようなものもなかったので、そのまま帰った。
 SNSで「読書好きあるある」というようなタグがバズることがある。そこであげられる「読書好きの特徴」なるものに、「本屋さんが大好きで一日中いられる」というものがあげられることがすくなくないが、わたしの場合、本屋にいてたのしいということはとくにない。これを買うぞと決めたものが置いてなければ、もうその本屋から興味を失う。


 夕顔の娘としてお馴染み、『源氏物語』の玉鬘が、物語に夢中になるシーンが「蛍」の巻内にある。明けても暮れても、というのだから、かなりのものだ。玉鬘といえば、荒波のなかに生きている女。父親が不在で母親は早死にし、各地をさまよい歩くという不運な人生を送ってきており、いまも養父代わりのエロ親父(光源氏)が気づかぬ間に添い寝をしてきたあげくにいいよってきて精神的に追い詰められている。このように日常をたのしんでいるシーンがあるだけでも、ほのぼのとせずにはいられない。
 にも関わらず、上記のエロ親父(光源氏)が、「(ほとんどの話は虚構なのに)体よくだまされて髪の乱れるのもかまわず書き写していらっしゃるとは」とひやかすものだから、玉鬘は物語を写しとるのをやめてしまう。それを見て悪いことをしたと思ったのか、光源氏が話し始めたのが、「物語の始まり」に関する自分なりの考えだ。

「一体物語には、誰それの身の上といって、ありのままに書くことはない。それでもいい事も悪い事も、この世に生きている人の有り様の、見ても見飽きず、聞いても聞捨てに出来なくて、後世にも言い伝えさせたい事柄を、あれやこれや、自分の胸ひとつにおさめておけなくなり、書き残したのが物語の始まりなのです。」
(紫式部源氏物語瀬戸内寂聴訳)

 虚構によってこそ表現できる真実もある。これは作者である紫式部自身の考えなのではないか、と想像すると面白い。なぜまたこの物語論をきかされる相手が玉鬘なのか……といえば、いかにもなシンデレラストーリーの持ち主で、作中でもっとも架空の人物めいているのが玉鬘だったからだろう。読者に違和感を生じさせる人物は、逆手にとってメタ的な話の相手にしよう、というわけだ。光源氏も、「私たちの仲もまるで物語のようだ」なんてことを話している。

 作中人物がメタ的に物語論を語り合う展開といえば、『ドン・キホーテ』後編の第3章もわすれがたい。作中人物が『ドン・キホーテ』前編を既読済みで、文体や作品の構造、さらには作者の製作過程についてまで話し合ってしまう。物語論めいたものもとうぜん出てくる。『ドン・キホーテ』自体が、かなりメタ・フィクション的な性質を持っているが、後編でそのおもしろさを発揮し始める章はここだろう。
 世界最古の長編小説と、近代小説の祖。そのいずれもが、物語論を作品に内包している。物語形式に革命を起こす人間は、光源氏の考えを借りれば、「物語についての考え」を胸ひとつにおさめておけなくなった人間……ということになるのだろうか。