鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【魯迅】『野草』「凧」──“あやまりたい欲”の身勝手さ

 魯迅に「凧」という掌編がある。少年時代、弟がこっそりとがんばって作った凧を、語り手は「こんな子どもじみたもん作るな!」と少年らしい支配欲で壊してしまう。しかし20年経ってから、その行為の残酷さに気づき、突如として謝りたくなる……、という筋だ。

かれに許しを乞う。《ぼく、何とも思ってませんよ》と言ってもらう。そうすれば私の心はきっと軽くなるだろう。
(魯迅「凧」竹内好訳)

 けっきょく、弟がこの出来事のことをすっかり忘れてしまっていたため、この謝罪の念はいくところがないまま終わってしまう。語り手は、心の重さを抱えたまま、遠くの空に凧があがっているのを見て、「きびしい冬に身を隠したい──」と独白する。語り手のいる北京は厳冬だったんだが、彼の故郷では春に凧揚げをしていたのだ。
 人間が謝りたくなるとき、その理由としては、「社会に許されたい」と「自分自身に許されたい」の2パターンがあるんじゃないかと思う。前者のウエートが大きい人間なら、弟はこのことを怨むどころかおぼえてすらいないわけだから、『金田一少年』の殺され役よろしく「やったあ!」となって終わっただろうが、どうもこの語り手は後者のウエートのほうが大きい人間だったようだ。清算したい出来事を弟がおぼえていなかったがゆえに、自分を自分の中での“善”の領域に戻す機会を失ってしまったのが、この作品における“心の重さ”の本質なんだろう。
 見えない何かにたいして「ごめんなさい!」をしたくなる発作にかられるひとたちがいる。この作品のとおり、「そんなん世のひとはどうでもいいと思ってるよ……」という感じなんだが、そんな気づきでなんとかなるならこの作品の語り手だって、「おっ! いつの時代もチビッ子の遊びといえばこれだな~!」とでも思いながら終盤ににこにこ顔で凧をながめていたはずだ。実際的な人間関係や社会的立ち位置は関係なしに、「自分で自分を善人の領域に持っていきたい」という矯正の念が、「あやまりたい欲」なんじゃないか。
 こういうひとたちは、傷つけた(?)相手自身の心情を考慮しているわけではない点では、偽善じみているといえるかもしれないが、内面から「善でありたい」と願っている点では、むしろ真の善人といえるのかもしれない。といっても、身体や精神がおかしくなるまで、善であることにこだわる必要があるのかどうかは知らんけど……。

 この「凧」、掌編であることは冒頭でも触れているんだが、読み返したらなんと5ページしかなくておどろいた。この分量でも、哀愁ただよう情景がくっきりと浮かび、一文一文から登場人物の呼吸が伝わるかのようで、魯迅の技術の高さがうかがえる。