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こい(@gyaradus)のブログ

【S・シン】『数学者たちの楽園』──2023年上半期の本ベスト10を発表!

 タイトルに書かれている通り、これといった前置きはいれずにベスト10を発表していく。

 

第10位 『ナポレオンの剃刀の冒険』(エラリー・クイーン

 ラジオドラマとして不特定多数の聴衆をたのしませる必要があった本作は、「謎が魅力的」「情報の提示が明確」「多くの人間が参加可能」と、パズラーに欲しい要素が必然的に揃えられている。形式の持つ力を大御所中の大御所から再確認させてもらえるのはありがたい限り。


第9位 『神曲 地獄編』(ダンテ・アリギエーリ)

 ダンテの根底にあるアリストレス学派の思想がこの世界を形作っているのではないか、という発想に至ると、ヴェルギリウスと歩く地獄の光景が、じつに論理的で秩序だったもののように思えてきた。時代遅れだと思っていた部分も含め、作品世界の構築において学べる部分が多い。


第8位 『徒然草』(吉田兼好

 吉田兼好エスプリまじりの警句を思い返すたび、身を正さなくては、という思いにかられる。これらがうるさいように感じないどころか、親しみをもって感じられるのは、吉田兼好自身がふにゃけた人間だったからじゃないかと今回読んで思った。劣等生は劣等生なりに精進すべし。


第7位 『チャイナ蜜柑の秘密』(エラリー・クイーン

 長らく国名シリーズの中では高い評価をしていなかった作品。しかし、『オランダ靴』、『ギリシャ棺』、『エジプト十字架』の読書会を通して「モチーフによる作品の統一」について考えると、評価が改まった。「The Chinese Orange」でどこまで作品世界を覆うことができるか。漠然としたイメージの理解から事件を解体しようとするエラリーの動きも興味深い。


第6位 『数学ガール』(結城浩

 そのジャンルの知識がない読者を導くにはどうすればいいか、ということを考えるにあたって、この作品が小説の形式になっていることは注目に値する。ミルカさん-主人公-テトラちゃんの師弟関係(?)を追っていくうちに、読者も数学に熱中するサイドに引きこまれていくような感覚になるのがいい。母関数を介して「フィボナッチ数列」が閉じた式に向かっていく第4章から、一気に世界観が更新されるような感触あり。


第5位 『最暗黒の東京』(松原岩五郎)

 この国において、物語はなんのために書かれ、どう受容されていったのか。戯作文学と政治小説を経てたどりついたこの明治中期のルポルタージュは、ひとつの答えを与えてくれるものだった。同テーマである横山源之助の『日本の下層社会』もおもしろい一冊だったが、本書は肌に迫るような迫力において、一線を画している。悪臭、痒み、疲労感、汗の味、汚水の染み、虫の羽音。文体と主観性の持つ力を印象づけられた一冊。


第4位 『寒い国から帰ってきたスパイ』(ジョン・ル・カレ

 物語にテーマを持たせようとするなら、政治を避けることはできない。愛、友情、信念……、なにを描くにしろ、そこには大なり小なり「社会への関わり」が存在する。ル・カレが見てきた戦後・冷戦期のイギリスへの憤懣は、ミステリーの形式をとっていまもまだ残り続けている。現代で物語を書いてなにかを主張したいと思うなら、まだまだ世の中にたいしての見地を深める必要があると思わされた。


第3位 『五百万ドルの迷宮』(ロス・トーマス)

2週間かけて2回読んだのは、今年逝去した原尞の影響によるもの。そして原尞のいうとおり、この作品の魅力を伝えるのはむずかしい。ウィットの効いた会話、鮮烈なシーンの数々、構図が変化する意外性……なんて定形的なことばでは、本作のおもしろさはまったく伝わらないからだ。ということで、この作品について好きな部分をひとつあげよう。この作品のキャラクターは、男も女も、数ページしか出ないモブキャラでさえも、みなもとめているものがある。そして会話のたびにそのための駆け引きをしている。そんなところだ。


第2位 『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン

 わずかな手がかりから数々の情報を引き出すシャーロック・ホームズに憧れたひとは多いだろう。あのおもしろさの本質は、一見単純に見えるものの中に、たくさんの情報が詰まっているという構図の対称性にあるのではないかと思う。エラリー・クイーンやドルリー・レーンの推理の美しさも同様。そして、本書を読むに、多くの数学者もどうやら数学の問題の証明に関して似たようなことを感じているらしい。外面はわかりやすいフェルマーの最終定理を証明するうえで、数々の歴史的なドラマが存在し、それらが解法という形でひとつの営みに組みこまれていく……。わたしが、ミステリーの美しさの本質と考えているものが、現実の数学の世界ですでに形作られていた。これを興奮せずにはいられるか。自分の求めているものを大きなスケールで明確にしてくれた一冊。


第1位 『数学者たちの楽園』(サイモン・シン


 自作にはさまざまな仕掛けを忍ばせているのだが、それを拾ってもらえることはほとんどない。それどころかふだんどういうものを作っているのか理解されることすら稀で、しばらく完全に拗ねてしまっていた(自作解説するとおどろいてもらえるがそういうのは気づいてほしいのだ)。しかし、『シンプソンズ』の制作者たちが、一般の視聴者たちには到底理解できないような高度なネタを作品の隅々にまで盛りこんでいることを知って、襟を正した。大事なのは、作者が必要だと思ったロジックがどれだけ作品世界で一貫されているかだ。直接理解されるかどうかはともかくとして、こうしてつくりこみはけっして無駄にはならない、と思い直した。

 以上。年末に2023年のベスト20を発表する予定(とくに語ることがないので淡白な結びになった……)。