鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【トルストイ】『戦争と平和』──だれもが“物”になりたがっている

 心に虚無がおとずれることがある。なににも集中できず、頭に浮かぶのは、広がる白地にΩ(空っぽな頭)のマークが記されているイメージだけ。とりあえず外を出歩いて、名前を知らない雑草が無秩序に生い茂っている様子を眺める。黒ずんだ雲が広がっている様子を見て、あれが水の粒であると思いつつ、ポケモンのミュウの頭に似ていると考える。気づくと、足は海に向かっている。
 毎日、本を読んで、ショート動画を眺めて、情報の奔流の中にいる。脳は数々の冒険をしているが、わたしの身体はじっと制して小さな空間を見つめ続けている。1000円札1枚ていどの面積しか有していない“これ”が、わたしの世界のすべてだ。

 夕刻の薄暗さの中、潮風でぼろぼろになったベンチの背もたれを、手で掴んでみる。押し返される感触があった。それとともに、そこに、それがあることを感じられた。岸辺まで歩いて、真っ黒な木片が波に打たれている様子を見る。『嘔吐』(サルトル)の主人公なら吐き気を感じそうな光景だ、などと思いながらしばらく薄闇の中、ただ波音を聞いていた。ふと、土の感触を確かめたくなり、後先考えずに波打ち際まで行って、湿った土を掴んだ。当然すぐに波がやってきて、わたしの靴と、靴下と、ジーンズの裾がぐしょ濡れになった。足の裏に張りついた水の気持ちの悪い感覚と、べっとりと左手についた泥の重さが、ようやく我に返らせてくれる。

この万象の海ほど不思議なものはない、
誰ひとりそのみなもとをつきとめた人はない。
あてずっぽうにめいめい勝手なことは言ったが、
真相を明らかにすることは誰にもできない。
(オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』小川亮作訳)

 8月に志賀直哉の『暗夜行路』を読んで以来、近場の海に訪れることが多くなった。志賀直哉の作品群に描かれる、人間の消え去ることのない孤独。それに受け入れるためのヒントが風景との調和にあると感じたためだ。
 作家仲間に利用され、妻の不貞を知り、自分の人生が嘘から始まっていたことを知った時任謙作は、鳥取の山中に向かう。そこで人力車を引く老人と出会い、かれがそのロジックの中で何十年も過ごし、過去も未来もなく、風景と一体化している様子に憧憬をおぼえる。

老人は山の老樹のように、或いはむした岩のように、この景色の前に只其所に置かれてあるのだ。そして若し何か考えているとすれば、それは樹が考え、岩が考える程度にしか考えていないだろう。謙作はそんな気がした。彼にはその静寂な感じが羨ましかった。
(志賀直哉『暗夜行路』)

 人力車引きの老人は、動物のように自然の摂理にしたがって、ただ生きている。これはもちろん謙作が勝手に老人の人生の一面を切り抜いて考えたことにすぎないが、その静かなインスピレーションは、神聖なものすら感じさせる。
 “孤独”は、人間関係という虚構の中で相対的に現れる。物としてのわたしにもどってみれば、ただ生命活動をしているだけで、目前にある恐怖とは無縁なのだ。自分を苦悩から解き放つためには、“物”に回帰する必要がある。あらゆる形の自傷行為は、ときには死に至ることもあるそれは、“物”でありたいという欲求の表れなのではないか、という考えが、頭に蘇りはじめる。

何ひとつ無い、在るのは無いものだけだ。
(ウィリアム・シェークスピア『マクベス』松岡和子訳)

生命は、発展のすべての迂回路を経ながら、生命体がかつて捨て去った状態に復帰しようと努力しているに違いない。
(ジークムント・フロイト「快感原則の彼岸」中山元訳)

 手が海水と泥を感じたとき、すべてが海に飲みこまれ、それに溶けこんでしまう感覚を部分的に感じる。こうしてわたしはほんのわずかな瞬間だけ死ぬ。波打ち際についた手の痕が波によって消される様子を見ながら、わたしは自分が部分的に死んだことを感じる。恐れもまた、葬られる。
 10月、志賀直哉の主要作品を読み終えた後、トルストイの『戦争と平和』を読みはじめた。『暗夜行路』の枠組みにはトルストイの『人生論』で語られている「動物的個我の消失」が無縁であるとは思えず、また、謙作の孤独にまつわる鬱屈に、莫大な財産とともに限りない不信を手にした青年、ピエール(※)の影を見ずにはいられなかったからだ。トルストイはどのように描いていたのか、ということが気になりはじめた。
 これまで人物ごと、シーンごとの切り口でしか語ることができなかった『戦争と平和』だが、今回、マクロにとらえることができた部分がある。この作品の叙事詩的なスケールの大きさに比して、個人はあまりにも無力だ。戦争の描写に関して『イリアス』を想起させるところもあったが、“世界”が描かれることで、個々の人間たちが個我を越えた秩序に組みこまれているような印象が与えられている。この作品の不思議と安らぐような感覚は、ここからきていて、作品構造が思想を体現しているのだな、と感銘させられた。

※  ピエール・ベズウーホフ伯爵はわたし自身に似ていると思う創作上の人物のひとりだ。かれの幼い個我から発する無謀さと愚かさ、ゾッとするような感情の爆発は、国内の「青春小説」と銘打たれている作品群よりもはるかに「青春」を感じさせる。