鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【吉田兼好】『徒然草』「第41段」──ほんとうは劣等生の回顧録?

 メモによると、5月28日に『徒然草』を読み終えたらしいが、その瞬間のことをおぼえていない。現代語訳ですでに既読済みだったし、その後もたまにちらほら読み返していたから、「これで終わった」という感触がなかったためかもしれない。
 今回原文で読んでいてたびたび思ったのが、「いっていることとやっていることが違うな」ということだった。すでに弊ブログでもなんどか取りあげているが、「第111段」では「双六は死刑並の大罪だ!」という意見に共感を示しているのに、「第110段」では達人に双六の必勝法を訊いている。「第175段」では酒を飲むことの醜悪ぶりを書き連ねはじめたかと思いきや、後半で途端に酒を通じた人間関係の愉しみについての話に切り替えている。なんというか、優柔不断だ。しかし、このように見え隠れする意志の弱さが共感を呼び、慰められるような気分になる。
 徹底したものには、いつでも恐ろしさがつきまとう。『ルバイヤート』のウマル・ハイヤーム、『パンセ』のブレーズ・パスカル、どちらも史上の天才中の天才といって過言ではない人物だが、その著書は、読んでいくうちに底冷えするような感覚が与えられる。科学者、そして神学者ゆえの論理の徹底ぶりが背後にあるためだろう。虚無や無限といった概念への「畏れ」に、無力感にも近い、暗澹たる気分にさえさせられてしまう。
 『徒然草』から伝わってくる吉田兼好の人物像は、かれらのような“極めた”人間のものではない。「ああすべきだ、こうすべき」だと考えながらいつも身を清くしようとこころがけているが、一時の欲に負けて遊びや酒をたのしんでしまう。それからさまざまな理屈を考えて自分を戒めるが、しばらくしたらまた欲に負けて時間を浪費する。そんな自分や、それと大差ない世の人間たちの矮小さを感じながら、毎日を徒然と過ごしている。厭世的な気持ちと俗な気持ちをともに持ち合わせ、世の中の愚かさをくだらなく思っている一方で、たのしんでもいる。「第188段」では、説教師にふさわしい人物になるべくいろいろな物事の稽古に手を出してしまったせいで、肝心の説経を習う暇がなく年をとってしまった坊主を例に出し、「ひとつのことを励むと良い」と述べているが、これは吉田兼好が自分自身の人生を省みて感じたことではないだろうか。

「我等が生死の到来ただいまにもやあらん。それを忘れて、ものみて日を暮らす。おろかなることは、なほまさりたるものを。」
吉田兼好徒然草』)

 

 人生は短く、いつ終わりがくるかわからない。それなのに、みなそのことを忘れて毎日を過ごしている。『徒然草』の中でもとくに印象的な「第41段」だが、これは自分自身にたいする大きな戒めだったのかもしれない。
 こうして見えてくる吉田兼好の人格は、「こうありたい」よりも「自分に近い」と思えるものだ。目指すものへの努力に専念したいのに、興味がさまざまな方向へ散ってしまう。周りは精一杯努力して先に進んでいるのに、わたしはなんてダメなやつなのだろう……となる。
 しかし、「秩序に近づきたい」という気持ちを持ち続けることはできる。失敗をするたびに教義に戻り、またすこしずつ前進していく。『徒然草』は、そうした劣等生の慎ましい営みの軌跡なのだ。
 それに美を見出すこと、それは自分自身の人生の肯定となる。

 

 人間の弱さは、人がつくり上げる、かくも多くの美の原因である。たとえば、リュートを上手にひけることなど。(そんなことができないのが)悪いというのは、われわれの弱さのためだけである。
ブレーズ・パスカル『パンセ』前田陽一・由木康訳)

 

 “極めた”人間として紹介したパスカルだが、かれ自身は、数学者ではなく、普遍的な人間であるオネットムでありたいと『パンセ』の中で述べている。