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こい(@gyaradus)のブログ

【平安文学】『更級日記』──物語に飢えている状態が恋しい?

 

はしるはしる、わづかに見つつ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人も交じらず、几帳の内にうち伏して、引き出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ。(菅原孝標女更級日記』)

 

 『更級日記』を読んでいるんだが、菅原孝標女の『源氏物語』への没入ぶりがすごい。「人も交じらず、几帳の内にうち伏して~」というのは、いまでいえば「部屋にひとり引きもこってずっと読んでいます」というようなものだろう。菅原孝標女のように、昼は一日中、夜は寝るまで、というほど作品にはまった経験はここ最近はない。

 『更級日記』は、菅原孝標女「物語というものを見てみたい」と薬師仏に願っているシーンからはじまる。幼い頃からNHKで『おじゃる丸』を見て育ったわたしとちがって、この時代のひとたちにとって物語は身近にあふれているものではなかった。そんな状況なら、物語への飢餓感というのはいまの人間とは比べ物にならないというもので、菅原孝標女は『源氏物語』を読むこと以外をしなかったばかりに、脳内に自然と『源氏物語』の文章が浮かぶほどになっていたそうだ。

 『ドン・キホーテ』の作中で作者のセルバンテスが、そこらへんに落ちていた紙切れを拾うシーンががある。「活字が好きだから拾った」ととうぜんのごとく書かれたことに、読んだ当時のわたしはおどろいた。スマホがあれば簡単に活字に触れられる現在は、この時代と比べて幸せといえば幸せなのだが、ラ・マンチャ郷士のように気がおかしくなるほど作品の世界に没入できるかといえばNOだろう。

 考えてみれば、子ども時代は、摂取した作品のどれもがおもしろくてかけがえなかった。ウェブとつながることにも無類の感動をおぼえていた。それも当時持っていた「飢餓」によるものだ。

 情報過多の飽食の中に生きているわたしには、当時の菅原孝標女が持っていた熱がなんともうらやましい。一度あらゆる活字を絶って、活字への飢餓感を養おうか、と考えてしまった。