鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【ロブ=グリエ】『嫉妬』──町の読書会がつまらなくなるのは「自分語り」のせいなのか?

 読書会に関するポストが話題になっている。「町の読書会に参加したら、参加者が本をダシに自分語りしてばかりで、テキスト理解を目指していなかった」というものだ。
 ポスト主は「大学院同士でやるものとはちがうので当惑した。反省した」なんていっているが、わざとらしい話だ。テキスト理解を中心とした読書会なんて、参加者にある程度の知識とそれを出力する技能がなければ不可能で、さまざまな階層の人間が集まるであろう町の読書会でそんなことができるはずがない。『一九八四年』には、主人公が大衆(作中ではプロールという階級がこれに該当する)から国の過去についての情報を引き出そうとしたところ、なんの脈略もない思い出話が延々と続いてしまう、というシーンがある。

 ウィンストンは無力感に襲われた。老人の記憶は些細なエピソードのがらくたの山に過ぎない。一日中質問したところで、まともな情報は何ひとつ得られないだろう。
(ジョージ・オーウェル『一九八四年』高橋和久訳)

 仮に能力があるひとがいたとしても、ほかの参加者のことを考えて、でしゃばらないようにしているだろう。反省もなにも、すこし考えればわかることである。

 さて、こういうポストが広がると、それに乗じて「自分は違う」とアピールしたがる人間が現れる。「おれなら本の話をしろとつっこむ」だの「つまらない自分語りをするやつは許さない」だのといったものがそれだ。しょうじきいって、いずれも欺瞞もいいところだ。
 前者では、「本の話」がさも「自分語り」と反するもののように語られているが、はたしてそうだろうか。読書会でよく見られるような「ここの部分がエモい」だの、「ここの要素からしか得られない栄養がある」だのといった感想の共有は、「本の話」ではあっても、テキスト理解には直接貢献しない。それらについて周りの人間が、「そうそう」と共感してたのしんでいたとしても、「わたしはこういうものが好き」という趣旨の「本をダシにした自分語り」であることにはかわりはない。
 そして呆れるのが、後者の「つまらない自分語りをするやつは許さない」という見解だ。自分語りがおもしろく思えるかどうかなんて、そもそも話している相手に関心を抱いているかどうかに左右されている(知らない芸能人同士が内輪話をするバラエティー番組がつまらないのもこのためだ)。「おもしろい自分語りや友だちの自分語りなら許容する」と発言していた人物もいたが、それは「おれの友だちじゃないやつはだまっとけ」といっているのとなんら変わりない。町の読書会で本をダシに自分語りをしていたらしいひとたちだって、自分たちにとっておもしろい自分語りを友だちに向けてしていたにすぎないんじゃないだろうか。
 ミステリマニア同士で話すとき、読書会についての不満が話題になることはすくなからずある。おもにあげられるのは「だれかの自分語りがつまらない」というものではない。「いつも決まったメンバーだけが気持ちよく話していて会話に加われない参加者がたくさんいる」というものだ。
 コミュニティー形成も本がもたらす立派な効用だ。だれもがテキストについて詳細に語れるわけではないのだし、本をダシに自分語りをするのはなんら悪いことではない。「ぼかぁ『長いお別れ』が好きだ。そして辛いジャワカレーが好きだ!!」。それでいいし、それをつまらない自分語りどうこう因縁をつけて弾こうとしてくる人間こそ悪党である。読書を楽しみ続けたかったら、「ああいうべき、こういうべき」なんて考えずにまず自分の感性を信じるのがよい。

 二人はこれまでに、小説の主題について、価値判断を下したことは一度もなかった。逆に、まるで現実に起ったことのように、場所や、事件や、登場人物について語りあうのだ。すなわち、二人が思い出を持っている場所(しかも、小説の舞台はアフリカなのだ)とか、二人がそこで知り合った人々、あるいはその噂を耳にしたことがある人々とかについて語りあっているみたいだ。
(アラン・ロブ=グリエ『嫉妬』白井浩司訳)

 ロブ=グリエの『嫉妬』を読み終えた。6月1日に行われる読書会の課題本だ。訳者後記と解説は読んでいない。難解な作品であるから、なにかしらの情報があったほうが理解は深まるだろうが、手探りで作品から宝石を掘り出していく感覚をたのしみたいのだ。
 ストックしておいた自分の意見をあれこれ話してみる。それがほかの参加者にどう洗い直されていくのか。そしてほかの参加者はこの作品についてどのような意見を述べるのか。わたしはそれにどう反応することになるか。いまのところ、この作品は、なにもかもがくっきり見えているが、よりかかれるものがない。大きな屋敷の中身が、仕切りのない巨大な広間になっているような感覚だ。さまざまな人間の視点が介入することによって、きっとここからさまざまな部屋ができていくことだろう。もしかすると、この所見自体、後になればバカげたものと自分で思えてくるかもしれない。しかし、このとき考えた筋道は消えることなく残ることとなる。
 そして、この読書会は、法月綸太郎の評論の理解を深化する意図をもって決めたものだ。今回得られるであろう知見は、またほかの読者会で共有できる。そうすることでまた読書の空間が広がっていく。わたしの読書会はわたしの中で町の読書会を越えて都市の読書会となり、やがて国の読書会、大陸の読書会へと拡大していくのである。最強……。もう自分語りするやつも、それに因縁つけてくるやつもどうだっていい。わたしの読書会はもはや世界レベルとなっている。ここまでくれば自分語りではなく世界語りではないだろうか。自分で書いていてなんかよくわからなくなってきた。明日に備えてとっとと寝よう。