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こい(@gyaradus)のブログ

【ベルクソン】『笑い』──大喜利タグから感じる空虚さ

 江戸川乱歩賞の応募作品が「ふざけたペンネームだから」という理由で減点された、という話がSNSで話題になっている。そんなんで減点すんなよ……と思って調べてみたら、ほんとうにダサい名前だった。こんな股間に甲殻類がくっついたような作者名では、どんな大作であろうが読む意欲が減退するというもので、仮にも見知らぬ他人に読んでもらうことになる作品にこんなペンネームをつけるようなセンスの持ち主が作者なら、減点もしたくなるというものだ。『セクシーコマンド外伝 すごいよ!!マサルさん』のような作風だったのだろうか。

 タイトルやペンネームというのは立派な作品の一部だ。作家の森博嗣は、萩尾望都の『ポーの一族』を例にしてすぐれたタイトルの価値の高さについて話しており、タイトルから作品をつくることもあるという。乱歩賞の選考委員である辻村深月のデビュー作『冷たい校舎の時は止まる』は当初『投身自殺』というタイトルで、メフィスト賞の座談会では「つまらなそうだ」という評を受けていた。「密閉空間としての校舎、冷たい印象と冬、死と時間の経過、柔らかさと不思議さ」といった作品の魅力が伝わる現タイトルのほうがすぐれているのはいうまでもなく、このタイトルが辻村深月のキャリアを高めたといっても過言ではないだろう。

 しかし、どうも、「ペンネームなどという後で変えられるもので作品を減点するバカで頭の悪い選考委員」という物語がお気に召す人間が世には多いらしい。「そういう考えは古い」などとマルチ商法のような定型句を並べて、「いいペンネームだと思いますよ」とかなんとかペンネームにこめられた想いなど1ミリも考えてなさそうなことばで結ぶやつが現れる。「江戸川乱歩だってふざけた名前だ」とか江戸川乱歩の字面からにじみだす妖しげでカラクリじみた世界観なんてどうでもよさそうなやつが現れる。そして果てには「乱歩賞で減点されそうなタイトル」のようなクソつまらん大喜利タグの登場だ。

わたしが言いたいのは、わたしたちの身振りのうちで模倣できるのは機械のように画一的なところだけであり、つまるところ、わたしたちの生きている人格に関係ないところだけである、ということだ。誰かを模倣するとは、その誰かの人格のなかにそれとなく根づいてしまった自動作用の部分を引き出すことである。

(アンリ・ベルクソン『笑い』増田靖彦訳)

 ベルクソンにいわせれば、「笑い」は「形式の硬直性の緩和」だそうだ。大喜利の中で、「荒唐無稽なペンネームを大真面目に減点する選考委員」という形式が反復される。その中で「ペンネームを批判する」という行為は、内容をともなっていない「硬直性」として変質していく。周囲のともだちにきかせておけば良さそうな寒いネタを「タグ」によって共作形式にするのも、「大多数の人間(自分含む)にとってその考えは間違っている」という確信を強めるのに一役買っており、SNSに適している。「仲間はずれ」をつくることで、相対的にそのひとはひとりではなくなる(ように見える)。代わりに、そこにはなにも残らなくなる。

 このような経緯もあってか、私の周囲の流されやすいタコどもの一部は、とうとう「カニはいい。現代ではこのペンネームがウケる」というようなことまでいいはじめた。しかし、冷静になってみれば、そんなものは欺瞞もいいところだ。じっさいこんなペンネームで作品が世に出たところで、だいたいのひとは「なにこれ……」と白けるだろうし、「カニはいい」なんていっている連中も買ってたのしむかは怪しい。ベルクソンがいうように、おかしさの本来の環境は“無関心”なのである。有象無象の悪党のいうことを真に受けて「ペンネームなんてなんでもいいんだ!」などと思う人間が増えるのは、これから生まれるであろうまだ見ぬ作品たちにとってもったいないことだ。諸氏、自作を存分にたのしんでもらうためにもイカしたペンネームを捻出してほしい。