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こい(@gyaradus)のブログ

【綾辻行人】『十角館の殺人』──「謎解きのための謎解き」でべつにかまわない理由

 綾辻行人はわたしにとってルーツといえる作家だ。これまで、「推理小説にはまったきっかけ」を語る機会は多くあって、「はじめて読んだ推理小説」「推理小説を読むきっかけとなったハマった推理ゲーム」など様々な切り口で、これが自分にとってのミステリ趣味のはじまりだ、と語ってきた。そうした例としては、西村京太郎、島田荘司、『頭の体操』の多湖輝といった面々があげられる。しかし、「ミステリーを読む」「ミステリーを書く」といった営みを行う上での軸は、綾辻行人によって形作られたと断言してもいい。

 綾辻行人のミステリは鮮烈な体験を与えてくれる。中学生のころのわたしは、『十角館の殺人』の結末にある“あの一行“を見て、多くの初読者と同じように大きなショックを受けた。それまで作家読みを行っていなかったわたしが、『水車館の殺人』、『迷路館の殺人』、『緋色の囁き』と綾辻行人の作品に手を伸ばしていったのは、あのときの体感をもう一度得たいという思いに駆られたからだ。
 綾辻行人のミステリは歴史を含んでいる。ジョン・ディクスン・カーヴァン・ダインバロネス・オルツィといった大御所たちの存在を知ったきっかけは『十角館の殺人』だった。法月綸太郎有栖川有栖麻耶雄嵩辻村深月といった後に続くミステリの書き手の存在を知ったのも、綾辻行人を追う道の途中でのことだった。
 綾辻行人のミステリは実験的だ。『十角館の殺人』は、あんなに神様が顔を出して、視点をなんども移動させているが、現代の国内小説の作法として良いのだろうか。しかし、あのおどろきを演出するにはこの方法以外あるまい。『霧越邸殺人事件』や『どんどん橋、落ちた』は、革新的でありながらそのまま用いては小説の体をなすことができないトリックが用いられている。しかしながら、綾辻行人はそれを切り捨てるのではなく、作品の世界と調和させて、おもしろみにまで昇華させてしまっている。

 子ども時代のわたしが謎解きをつくるにあたって、まず模倣しようと考えたのは綾辻行人だった。叙述トリックのような手法は(一見)真似しやすく、残酷な描写は描いていてたのしい。作品構造を真似るために作品を読み返していく中で、さまざまな発見があった。レッドへリングの工夫、登場人物のあらゆる動きに必然性を持たせる配慮、「トリックが仕掛けられる必要性」に関しての四苦八苦……。アリストテレスの『詩学』、ボルヘスの『伝奇集』、わたしの感性をとらえる「秩序」へのこだわり。その原体験となっているのは、綾辻行人の作り出した世界だ。

ファウスト それでも己は物に動じないということを必ずしもいいことだとは考えないのだ。
 驚く、これは人間の最善の特性ではあるまいか。
 世間はこの「驚き」という感情を味わせてくれないようになってきたが、
 驚き撃たれてこそ、巨大な神秘に参入しうるのだ。
(ゲーテファウスト高橋義孝訳)

 本格ミステリに興味を持つ人間は、いまでも多くいる。新規読者も増えつつある。しかし、『十角館の殺人』のエラリイが強調するような「論理の遊び」としての側面に興味を持っているような読者は、すくなくともわたしの周囲ではあまり見かけない。「名探偵のキャラクター性」や「事件を通した社会との関わり」、「テーマを強調するための技巧」といった側面のほうが現在は人気を集めているように感じられる。綾辻行人の作品も、『暗黒館の殺人』や『最後の記憶』以降は謎解き一本という印象はなくなっている。綾辻に影響を受けたという作家も、辻村深月は『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』、道尾秀介は『球体の蛇』に至るまでに、作品内で謎解きが占めるスペースはどんどんちいさくなっていく。
 いわゆる「小説らしい」(?)ものを描きたくなる欲望に抗うのはむずかしい。そのうえ、そちらをメインにしたほうが作品がおもしろくなることもすくなくない。辻村深月に関していえば、『太陽の坐る場所』以降の作品のほうが、「ワンランク上昇した」という印象がある。彼女はその後直木賞を受賞して国内でもトップクラスの売れっ子作家となった。綾辻行人の『Anotherシリーズ』は、『館シリーズ』、『霧越邸殺人事件』、『囁きシリーズ』で用いられた要素を組み合わせて形作られた学園ホラーだが、純粋なエンターテイメントとしてはこれが氏の作品の中でも群を抜いておもしろいだろう(じっさいに、アニメ、マンガ、映画とメディアミックスが多く作られ、続編も制作され続けている)。

「僕にとって推理小説(ミステリ)とは、あくまでも知的な遊びの一つなんだ。小説という形式を使った読者対名探偵の、あるいは読者対作者の、刺激的な論理の遊び(ゲーム)。それ以上でも以下でもない。」
(綾辻行人十角館の殺人』)

 しかし、綾辻行人によって与えられた原体験はわたしの中で息づいている。謎解きのためにつくられた謎解きの話をわたしは否定しないし、いまでもなお、それらを求め続けている。それらに、現代に訴えかけるような高尚なテーマや、多くのひとを共感させるような優しみのある技巧はなくてもよい。ボルヘスがチェスタートンを評するのに用いた単語を使わせてもらうなら、その存在自体が、転がる枯れ草と鳥についばまれる骸が散らばった荒野に差しこまれた「秩序」の旗となっているからだ。ダンテの『神曲』にアリストテレスの理論が根付いているように、それらは回り回って、わたしにとっての行き先を、そしてまた、帰り道を示す道しるべとなっている。