鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【平安文学】『讃岐典待日記』──コロナ食らって気分は堀河天皇

 新型コロナウイルスについて、先週(10月31日~11月6日)の週間感染者数で日本は世界1位だったらしい。どうしてまあ、世の中、こんなに感染するひとが多いのか不思議である。マスクをつけ、人混みを避け、会話は距離をとって行う。食事はひとりでする。これだけのことができていれば、コロナを防ぐことはできる。わが国は、けっきょくのところ、自制心がないやつが多いのだな……と思っていたら、ついに私も感染してしまい、いまベッドにぐてーっと伏せながらスマホでこれを書いている。私でも感染するのだから、だれでもなるときはときはなるのである。

 顔が熱い。頭が石になったように重い。喉は皮が剥けたかのようで、唾を飲むたび鋭い痛みが走る。胃液がぐつぐつ煮えたぎるようで吐き気がするし、唇は乾燥してパリパリ割れていくし、超絶に気分が悪い。重症化するかもしれないと思うと、死への恐怖で「ぁぁ……、ぁぁ……」とかすれた呻きがもれ出る。

 そして、ぼんやりと「おれは天皇だ」と思うのだった。発熱で脳がとろけたわけではない。いま読んでいる『讃岐典待日記』の前半部分は、病床の堀河天皇がすこしずつ弱って死に近づく有り様を描いたもので、その姿が、いまの自分と重なったのだ。

「わればかりの人の、けふあす死なんとするを、かく目も見たてぬやうあらんや。いかが見る」

と問はせたまふ。聞くここち、ただむせかへりて、御いらへもせられず。

(藤原長子『讃岐典待日記』より)

「おれほどの人間が死のうとしてるのに、なんで目を背けるんだ~!」
 極上の品性と知性、そして誠実な人柄。日本でもっとも高貴な方だった堀河天皇が、病に侵され、子どものようにだだをこねるようになる。崩御が近づくにつれ、そのような気力もなくなっていき、枯れ木のようになって、ただ無気力に死を待つだけになる堀河天皇の姿は、リアルな「死」を肌にせまるように感じさせる。

 作者である典待、藤原長子は、堀河天皇を不安にさせまいと、寝ることなく近くでその姿を見とり続ける。病床にあっても作者の身を案じ、弱々しくも気にかけてくれる堀河天皇との間柄が哀切だ。
 堀河天皇崩御する際、居合わせた人々たちがいっせいに嗚咽し、失神する中で、作者が汗を拭きながら、「周囲のように嗚咽できない自分」について懐疑をめぐらせる姿は、「死」の喪失感と哀しみを痛烈に感じさせる。

 病床から「死」に至るまでを書いた作品としては、トルストイの『イワン・イリーチの死』もある。私は、ベッドの上で、堀河天皇の次くらいの頻度でイワン・イリーチと化していた。

 語り手のイワン・イリーチが、とくになにかの救いがなされることもなく、ただ「死」という曖昧な、しかし同時に鮮烈な恐怖に支配され続ける様を、リアルに描いた作品だ。読んだ当時は、イワン・イリーチが朽ち果てていく姿だけでたのしめてしまったが、トルストイのほかの作品と比較してみると、これは「個我の強い人間を待つ死」について描いたものだったのかもしれない。

 トルストイの元ネタといえば、ショーペンハウアーの「我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説によせて」だろう。これを読んでいると、そもそも「死」を恐怖の対象としてとらえるのはヘン……? という気分にすらなってくる。

 トルストイと同じくショーペンハウアーに影響を受けたボルヘスの「不死性」も読み返したくなったが、あいにくいま手許にはない。近いインスピレーションを受けた話といえば「不死の人」だが、読み返してみると、思い出以上にへんちくりんな話で、これはもっと頭が回るときに摂取しよう、と思った。

 ……。よく考えたら、さっきまで頭が重くて臥せっていたのに、なぜに私は本棚を漁っているんだ……。鼻はよく通るし、頭は回るしで、症状が軽減していた。

「本を読むと心が豊かになる!」みたいな通説については、「ほんまかいな」と思わなくはないが、このように身の回りとの共通項を探索しながら気をまぎらわすことができる、という利点を考えると、読書好きでよかったと思うのであった。