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こい(@gyaradus)のブログ

【スピノザ】『エチカ』「第三部」──SNSの誕生祝いとかいう孤独を加速させる文化

 一昨日くらいから頭痛が酷くて、すべてにおいて無気力になっている。気圧がかわったわけでもショックな出来事があったわけでもないため、どう考えてもポケモンSVをやらなくなったことによる離脱症状である。アルコールにしろカフェインにしろ、こういうので引き起こされる憂鬱や不安というのは、時間が経てばなんとかなることが多い。下手にさわがず、時が過ぎるのを待つべきだろう。

 昨日から頭痛に耐えながら『エチカ』の「第3部 感情の起源および本性について」をパラパラと読み返している。人間のさまざまな感情を抽象化して、「定理」から成り立つもの、として整理してしまっているのが、ほんとうにすごい。人間、憤怒や憎悪にとらわれたら、自分の思考を整理すべきだというが、『エチカ』の「第3部」は、めくっているだけで、こちらの感情が、なにかしらの定理によるものとして落としこまれていく。
 わたしは、SNS上のお誕生日祝い文化が嫌いである。基本的に友だちへの祝福は盛大にしたいため、以前は知り合いの誕生日があるたび、絵を描いたり、誕生日プレゼントを購入して送ったりと、手間をかけていた。しかし、いざこちらの誕生日となると、だいたいのひとは、おぼえていないか、もしくは反応すらしてくれない。わたしの存在など羽虫のようなものなのか──。こういうことが続いて、いまではSNSの誕生日がすっかり嫌になってしまった。孤独を加速させるおそろしい文化だ。
 この「誕生日を祝い返してもらえない悲しみ」は『エチカ』の「第3部」では、「愛に基づいて、あるいは名誉を期待して、ある人に親切をなした人は、その親切が感謝をもって受け取られないことを見るなら悲しみを感ずるであろう。」という「定理42」に該当する。この「定理42」を解体していくと、「愛するものにはできるだけ愛し返されようとする」(定理33)とか、「ほかのひとを喜ばせたら自分自身を喜びをもって観想する」(定理30)という定理がその基盤にある。そしてそれらもまたほかの定理によってなりたっていて、感情の根本を探っていくうちに、自分がいたって論理的な原則によって動いている(動かされている)ように感じられてくる。
 わたしは、どうも悪感情に囚われすぎて、自分を見失っていたようだ。スピノザによれば、憎しみを除去できるのは、“愛”である(定理43)。自分の誕生日をおぼえてもらえてないとか、そういうちいさいことを考えているのが、そもそも苦しみのはじまりだ。直前の記事など、「○○周年記念みたいな体裁がめんどい」とかなんとか、どうでもいいことを野次っていて、頭のおかしなひとではないか。小事にまどわされることなく、ただ愛をもって他人と接する。これこそが幸せへの道ということを忘れていた。『プリティーリズム レインボーライブ』の26話も「みんなに愛を届けていきたい」といっている。 

 わたしは生まれ変わった。これからは、世のためひとのため、愛にあふれた生き方をしていくことを心がける。