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こい(@gyaradus)のブログ

【綾辻行人】『水車館の殺人』──人工的な世界は居心地よい

 

 館シリーズの第2作『水車館の殺人』は、謎解きものとしての印象はあまり強くない。1作目の『十角館』、3作目の『迷路館』はともにメタ的な性質が強く、おどろく仕掛けも用意されている。それに対して、『水車館』は謎解きに関してこれといって新鮮といえるものはない。メインと思わしき仕掛けも途中で検討がついたひとは多いだろう。初読時中学生だったわたしですら、「おや」と思えるようなポイントが見つかり、いくつかの仕掛けは見抜くことができた。

 しかし、『水車館の殺人』は読んでいてたのしいと思える一冊だ。中学時代、教室の座席で読んでいたとき、「なんだそれ?」と不良っぽい同級生(ほんとうに不良だったかどうかは知らない。数学で83点をとっていた)が話しかけてきた。わたしはいかにもたのしそうに、焼却炉からバラバラ死体が転がってくる話だ、とこたえたおぼえがある。それにたいする「うえー、気持ち悪ぃ」という反応が意外で、いまも頭に残っている。

 『水車館の殺人』は上記のような凄惨な場面からスタートするのだが、不思議と気持ち悪くなるような印象はない。舞台である「水車館」がじつに非現実的で、距離を置いて読むことができるからだろう。白いゴムマスクを被った車椅子の男、閉じこめられた美少女、館を飾る不気味な幻想画、そして嵐の中で回り続ける巨大な水車……。こう並べてみると、笑ってしまいそうほど「いかにも」な道具が揃っている。しかし、館シリーズでこのような人工的な道具を存分にたのしめる作品は、本作を置いてない。十角館と黒猫館はいってしまえば山小屋、迷路館と時計館は地下の閉鎖空間がメイン、人形館にいたってはたんなるアパート。それらに対し、水車館は、『十角館』に登場するエラリイくんが好みそうな「館ミステリーのイメージそのままの館」だ。すべてが秩序によって整理されたちいさな世界。テレビゲームにも近い人工性の居心地よさが、そこにはある。
 本作の仕掛けの多くは先述の通り、そこまでむずかしいものではない(といっても全部を当てるのは困難だろうが)。しかし、「わかる」「わからない」の境界線上に置かれたパーツの数々は、読者の想像を絶妙に刺激する。それが読者に「推理」という一種の創作活動を行わせる。創作活動を行う上で、読者は現実を離れて、「空想」の世界に入りこむことになる。人工性も相まって、さまざまな現実のしがらみを離れた、「空想の秩序」の中に身を置くことができるのだ。

彼はまた、文学が提供することのできるさまざまな楽しみのなかで、もっとも大きなものは創作である、とも断言した。
(J・L・ボルヘス「ハーバード・クエインの作品の検討」鼓直訳)

 ミステリーの魅力を伝える中で「騙される」ということばが使われることがあるが、すぐれたミステリーは、読者を「騙す」のではなく「導く」ものだ。有栖川有栖の「スイス時計の謎」、法月綸太郎の「都市伝説パズル」、東川篤哉の「中途半端な密室」などは、たんなるこけおどしを狙った代物よりもはるかにおもしろい。
 さて、ここまで述べたように「非現実性」を強く感じる本作だが、この本を読んでくれた知り合いのひとりは「なんか昼ドラっぽくてさめた」と評したことがある。たしかに、真相で明かされるいくつかの裏側はへんに現実的で生々しい。水車館に集まるメンバーたちも、記号的ではあれど、いかにも俗なひとたちで、その中の正木と三田村などは「俗物」について語りはじめてしまう。しかし、わたしにはそこもまたおもしろく思える。世の常として、「幻想」は「俗」に破られるものだが、この作品の中では「俗」が「幻想」を構成するパーツに過ぎなくなっている。常識の理解を越えたさきに、大きな秩序が存在しているかのようだ。
 人間の歴史においてもっとも古くから存在する機械装置、水車。あらゆる個人的な考えも試みも、その無機質な回転の動力となる。人工性が、秩序がすべてに勝利を収める世界観を示すことにおいて、これ以上ないモチーフではないか。