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こい(@gyaradus)のブログ

【ギリシア文学】『ホメロス:史上最高の文学者』――原典を読むということ

 

 

 パラパラと開いたところ眼に飛びこんだ古代ギリシアの彫像や工芸品、それらをイメージした絵画や、当時の文明の復元図の数々に惹かれて手に取った。

 ホメロスが歴史上どのような需要をされてきたのか、ホメロスはそもそも何者なのか……についての情報をまとめた本である。

 翻訳されたものを読んでいるわたしには感じにくいことだが、『イリアス』にしろ『オデュッセイア』にしろあの壮大な話が口誦で拡散し、その後に文字としてふたたびまとめられたものだ。その途中でなんども時代に合った形に洗練され、作品の世界には、数百年にかけて語り継いできた人々の意志が混在している。

 “ホメロス”は、もはや個人ではなく、古代ギリシアの人々の精神が混ざり合ったなにか……。わたしも以前考えた「ホメロスは個人ではなく吟遊詩人のグループ」という説も紹介されていたが、『イリアス』と『オデュッセイア』がじっさいにたどってきたこのような経過のことを思えば、“ホメロス”の名が持つスケールの大きさは、それよりもはるかに大きなものだ。

 プラトンアリストテレスの著作でたびたび言及されているように、ホメロスの作品は、古代ギリシア人にとって、格言集であり歴史を知る書でもあった。シャトーブリアン(※)は、ホメロスのような天才が、言葉や名称を生み、民衆の語彙を増やし、架空の人物を現実のものにし、無数のアイデアを生む……といっている。これは聖書や中国の故事がいかに人間の文化に浸透し、そして行動を支配しているかを考えれば、よくわかることだろう。これまでの人生で「物語はじっさいの生活には役に立たない」という意見を持っているひとに多く出会ってきたが、むしろじっさいはその逆で、わたしたちはだれかが作りあげた物語の中を生きている。

 本書を読み終わった後、ほかにホメロス関連の本でも読むか、としばし思ったが、やめた。ゴーゴリの『肖像画』のワンシーンをふと思い出したからだ。

 

 彼はすべてのものを平等に見て、それぞれの長所をだけをとって尊重しながら、結局、自分の詩と仰ぐのは画聖ラファエロ一人だけだと心にきめた。それは大詩人がさまざまの魅力や荘厳な美しさに満ちたいろいろな作品を読破したうえで、結局ホメロスの『イリアス』だけを座右の書として、このなかにこそ求めるすべてのものが存在し、あらゆるものが深遠で偉大な完成の域に移されているをさとるのと同じだった。

ニコライ・ゴーゴリ肖像画』横田瑞穂訳)

 

 

 

 冷笑的な俗物と化した主人公のチャルコートフを震撼させた画家のエピソードだ。世間体を気にせずなんども絵を通して巨匠と対話したかれが最後に一人心に決め打った師はラファエロだった。ゴーゴリは、ホメロスが大詩人にとってのそれに当たると考えた。

 これほどの力を持つという作品なら、すぐに直接読む(翻訳を介してはいるものの)べきだと思った。『イリアス』も『オデュッセイア』も大学時代に既読済みだが、『肖像画』で言及されているように、さまざまな経験を得て、新たに見えるものというものあるだろう。

 じっさい、ショーペンハウアーは、解説書の類に否定的な見解を持っていた。

 

 できれば原案者、そのテーマの創設者・発見者の書いたものを読みなさい。少なくともその分野で高い評価を受けた大家の本を読みなさい。その内容を抜き書きした解説書を買うよりも、そのもとの本を、古書を買いなさい。誰かが発見したことに新しく付け加えることがたやすいことは、いうまでもない。だからこそ、じっくり考え抜いた根拠に基づいて新たに付け加えられた事柄に精通してゆかねばならない。

アルトゥル・ショーペンハウアー『著述と文体について』鈴木芳子訳)

 

 ショーペンハウアーの影響を受けたボルヘスもまた、批評は読まずに直接文献に当たれと20年間大学で学生に言い続けてきていた。

 私に言わせれば、ひとりの作家を理解する上でもっとも大切なことはその人の抑揚であり、一冊の書物でもっとも重要なのは作者の声、われわれに届く作者の声なのです。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス『書物』木村榮一訳)

 しかしボルヘスは、この後すぐに批評にたいする否定的な姿勢を翻している。というのも、『ハムレット』はすでにシェークスピアが思い描いたハムレットではなく、この400年で読者が新たなハムレットの像をつくりあげてしまっているからだ。『イリアス』と『オデュッセイア』の成立、そしてホメロスの存在がそうであったように、作品は読者との関係の中でいまもなお変容し続けている。


 われわれ一人ひとりは、何らかの形でこれまでに死んでいったすべての人間なのです。血のつながりのある人たちだけではないのです。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス『不死性』木村榮一訳)

 

※備忘録 シャトーブリアンホメロスと聖書を比較させている。どちらも叙述の簡素さが生む神秘性と考えられている。