鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【チェスタートン】『木曜日だった男』──1月3日の新幹線に乗ってはいけないという教訓

 

 年末年始というやつは、体力の浪費以外の何ものでもない。中でも最低最悪なのが、新幹線での移動である。

 この国の人間はとてつもなく頭が悪いようで、どいつもこいつも正月休みからいきなり1月4日に仕事を再開するという愚行をとる。新幹線のホームはわらわらと雨のあがりの土塀のダンゴムシばりに人間がうじゃうじゃ溢れかえっている。重たい荷物が肩をしめつけて、手が冷たく乾く中、新幹線を行列のなか1時間近く待つ。ようやく捕まえられたと思いきや、車内は人間がギュウギュウ詰めで席は坐れず、それどころか、通路を飛び出して、入り口付近のトイレ近くで立たされることになった。

 すこし揺れれば複数名と接触しかねない密で、とても新型コロナの治世とは思えない。前に立っていたのは目鼻と口が整ったなかなかの美人だったが、それを見て癒される……なんてこころの余裕などなく、なんでマスクを顎ガードに使ってるんだおめえは、と殺意をたぎらせていた。

 隣のにいちゃんは、ぐてーっとスーツケースを覆うように伏せている。途中で、彼はトイレに駆けこんだのだが、扉越しに「ガホッ! ガホッ!」と咳きこむ声と、液体が散る音がきこえてきた。親戚なんかの付き合いで餅なり酒なり食わされたんだろう。なかなかのイケメンだったのに、「すみません……」と肩を落としてトイレから出てくる姿の疲弊ぶりが、見ていて悲しくなった。

 車内の揺れで酔いそうになるし、自由席で赤ん坊の声がうるさいし、体力を削るのに余念がない。帰りの電車内を見ても、どいつもこいつもぐったりと眠っていて、疲れのいろしか見えなかった。せっかくの連休だというのに、ふざけた慣習のせいで疲れが増加しているのだからかわいそうだ。すくなくとも、わたしは、もう1月3日に新幹線は乗るまい、とこころに誓った。

 とはいえ、こんな絶望的な環境からでも得られた学びはあった。人間(というか自分)の集中力の再発見である。立ち読書する程度の空間はあったため、チェスタートンの『木曜日だった男』を読んでいたのだが、おもしろい作品だったこともあってか、移動中、“反転し続ける秩序”の世界に没入できていた。新幹線内はゴミ溜めのような環境だったが、そんな中でも読書をたのしめる集中力があるとは、わたしもまだまだ捨てたものではない。今後どんな不快な環境にいようとも、このドブのなかよりはマシだという感覚が、わたしの集中力を鼓舞してくれることだろう。

 

「僕らは幸せじゃなかった。あいつが告発した法の偉大な守護者の一人一人について、僕は請け合う。少なくとも――」

(G・K・チェスタートン『木曜日だった男』南條竹則訳)

 

 教授(金曜日)が日曜日にたいして「あなたは地獄にあまりにも近いところへ、私を迷い込ませた」と嘆くシーンで、ああ、これは『ヨブ記』で、作中の“日曜日”は試練を与える神なんだなあ、という印象を持った。「自分が他人より不幸と思うから争いは起こる」ってのはたしかなんだろうが、こういうノリは、「おれも辛いんだからおまえも我慢しろ!」っていう危険なあれにつながりかねないから、手放しに肯定はできない。といっても、個人が気休めに使う程度にはいいだろう。

「汝らは我が飲む杯より飲み得るや?」とでかい顔で訊いてくる作中人物の“日曜日”にたいして、いやあそんなことないです、と返しながら、新幹線内での時間を過ごしたのだった。