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こい(@gyaradus)のブログ

【イタリア文学】『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』――「2022年の抱負」はどんどん発信してしまえ

 2022年になった。どこのブログも新年には「今年の抱負」を発表するのが常のようで、それに倣ってわたしもここに「2022年の抱負」を公開する。

                                                     

                             

1.Twitterをやめる

 

 新年早々、不穏な抱負である。このブログを読んでいるひとのほとんどはTwitter経由だろうから、「ついにこいさんTwitterからいなくなってしまうのか……」とショックを受けた(受けてほしい)だろうが、べつにアカウントを消して完全に姿を現さなくなるとかそういうことではない。

 2021年は「読書以外のことに時間をあてよう」と読書時間を削ってみたのだが、けっきょくそれで身のためになる術がついたということはなく、たんにTwitterと動画サイトを見る時間が増えただけであった。それどころか、この「スマホを見続ける」行為には驚異的な中毒性があり、はっきり申してわたしはもう人間としてダメになったのではないのかと思える状態となっている。勉強するにも料理をつくるにも「めんどくさ……まずはスマホいじってからにしよ」という気分になり、作業にまで時間がかかる。「気づいたらスマホいじるだけで12時間経過していた……」という夢見りあむのワンシーンは誇張したギャグだろうと思っていたが、そんなことはなく、このままではある意味での“死”を迎えることは間違いない。こんな生活はすぐにでもやめるべきなのである。2021年にスマホ漬けになっていた時間は、例年通り、読書をしてすごすことにする。いちおうTwitterには存在が忘れられない程度には顔を出す予定である。

 「2021年はスマホ漬けでやばかった」とはいったものの、これまであまり興味のなかったVtuberやゲーム実況者などについての知見に関しては、飛躍的に向上し、会話の幅が増えた。ここらへんは肯定的な面といえるだろう。また、「Twitter漬け」による「虚無」の体感というのも、これまでにない人生経験で、今後役立ちそうな気配がした。

 

 

2.「2022年の抱負」などはカスだ

 

「2022年の抱負」はどんどん発信してしまえ、とかなんとかタイトルに書いてるわりに、いきなりそれを否定せんばかりの抱負である。というか、抱負じゃなくてただの感想だ。

 でもぶっちゃけ「2022年の抱負!」などと具体的な目標を書いたところで「いやでもまだ365日あるしな~」といってどんどん先延ばししてしまうのが人間の常じゃないか。それなら、「今日の目標」とか「一ヶ月の目標」とか短い期間で目標を設定していくほうが良いように思える。というわけで、次の3にはこの一ヶ月の目標として「1月の目標」をあげる。

 

 

3.高校物理を90時間勉強する。

 

 去年から高校の学習範囲を自学自習しているのだが、物理科目についてはぜんぜん理解が進んでいない。『橋元の物理をはじめからていねいに』を片手に、『物理のエッセンス』をざっと一周した程度のもので、しかも知識の定着はかなり心許ないように思える。せめてセンター試験の過去問で8割はとれるようにしておきたいところだ。1月中にとりあえず90時間ほど勉強して強化を図ることにしよう。

 

 

 第一には、未熟であれば多数の素描研究生の中で見られることを恥じるにちがいないが、この羞恥心は立派な研究の原因になることである。第二には健全な羨望は、君以上に賞讃せれている人々の数に加わろうと君を激励するだろう。何故なら他人の賞讃は君に拍車をかけるからだ。

レオナルド・ダ・ヴィンチレオナルド・ダ・ヴィンチの手記』杉浦明平訳)

 仲間といっしょに描くのは良いか悪いか、についてのダ・ヴィンチの見解である。「能力のなさを他人にさらして恥をかくのがモチベーションになる」となかなか前向きなことをいってくれている。たしかに、へんにプライドを肥大化させていくよりは、他人の目にさらされながら、功名心によって動いていったほうが、着実に力がつくだろう。

 この『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』では、「万物の天才」ダ・ヴィンチの思考体系の一部をのぞくことができる。わたしが高校物理を勉強してみようと感じたのも、ダ・ヴィンチの広い分野を連関させていく思考と、それを底にした独創性に興味を持ったためだ。

 

 能をつかんとする人、よくせざらんほどは、なまじひに人にしられじ、うちうちよく習ひ得てさしいでたらんこそ、心にくからめとつねに言ふめれど、かくいふ人、一芸も習ひ得ることなし。

吉田兼好徒然草』)

 

 我が国の吉田兼好は「こっそり努力してできるようになろうというやつは、けっきょくなにも身につかない」とまでいっている。なにかを身につけたいなら、気取りを捨てて、自分の無能さを自分で知るべきなのだ。