鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【仮名垣魯文】『安愚楽鍋』──物書きの「信念」ってなんぞや?  

 仮名垣魯文の『安愚楽鍋』を帰りの電車の中で読み終えた。明治初期、都内の西洋料理店にやってきたさまざまな客たちが、牛鍋を食べながら、自らの体験談をだらだら話していく……という形式の戯作小説だが、予想通りというべきか、なんかつまらない。もともと内容自体をたのしむというよりは、明治維新直後(1871~1872)の風俗描写への興味から手に取ったものだから、期待していなかったものの、本書を読み終えてからは、「当時の人たちはこれを楽しんでいたであろうに、どうしてだろうな」という方向に考えが広がっていった。
 なぜ、おもしろさを感じられないのか。そのヒントは、岩波文庫版の解説に書かれている。

ここで魯文の作家としての生涯を振って考えてみると、結局は際物書きの連続にすぎなかったといえるようである。そして大体からいって際物作家には確固たる信念はなく、思想の深さもないのが通例である。ただひたすら流行を追い、世間の好尚に追随するのみである。そして世人の人気に投じることを、これ心がけるようになる。この点は魯文の際物作にもあらわれている。

(仮名垣魯文安愚楽鍋』解説)

 「確固たる信念はなく」「世間の好尚に追随するのみ」。このような姿勢を批判した作品は、古典名作に多い。パッと思いつく限りだと、ゴーゴリの「肖像画」、ポーの「群衆の人」、それから、ゲーテの『ファウスト』の前狂言に登場する詩人の意見も、これに該当するだろう。いずれの作品も、いってしまえば、「大衆に迎合しようとするとオリジナリティーが消失してしまう」ということが語られている。

詩人 どうかあの群衆のことはいわないで下さい。

 あの手合いを見ると、われわれ詩人は意気阻喪してしまうのです。

 無遠慮にわれわれをその渦に巻き込む

 あの群衆は真っ平御免なのです。

(ゲーテファウスト高橋義孝訳)

 群衆の喧騒は、あらゆるものを単純化してしまい、たんなる記号へと貶めてしまう。『安愚楽鍋』はどうだろう。『安愚楽鍋』に登場するひとびとは、牛鍋を箸でつまみながら、肉食が国内や海外ではどう受容されているかとか、芸者が欧米人に肉食を強要されて泣き出したとか、当時の世情やゴシップについての話題を提供してくれる。ここが当時を知る資料としての本作の価値を生み出しているが、逆にいえば、その範疇を出るようなものはない。「○新聞好きの生鍋」では「『史記』や『論語』などよりも洋学を学ぶべきだ」などというようなことが語られているものの、その思考に至った経緯や、これといった根拠のようなものは見受けられない。これもまた、当時いたであろう人間を機械的に書き写したゴシップのひとつにすぎないといえる。
 いってしまえば、かれらは、記号化された群衆そのものだ。作品が描かれた当時の人間なら、各登場人物に関して、自分との共通点を見つけながら共感し、あるいは差異を感じて滑稽さを感じることができただろうが、さすがに価値観が隔たってしまった今現在の読者がそのようなおもしろさを感じ取ることはむずかしい。これが、ほとんどの通俗ものが時代とともに消えてしまう理由なのだろう。

「大衆に迎合する」というのは、「物事の記号化によって共感を得る」ということなのだ。

道化役  その「のちの世」はやめていただきたいね。

 このわしが「のちの世」とやらを慮ったら、 

 一体誰が現在只今の人たちを笑わせるのですか。

 現在只今生きている人たちが問題さね。

(ゲーテファウスト高橋義孝訳)

 これにたいして「信念」とはなんだろう。辞書的な定義でいえば、「正しいと感じる自分の考え」。『安愚楽鍋』に欠如していた部分から考えていくと、それは「物書き自身の思考体系」といえる。
 以前、弊ブログの記事を紹介してくれた方が、「『源氏物語』や『徒然草』を『ポケモンSV』と並べて語るのがすごい」とおもしがってくれたことがあった。しかし、そもそもこのようなことができるのは、紫式部吉田兼好といった面々の「ものの考え方」が、ポケモンのような現代の娯楽に十分照らし合わせられる普遍性を持っているからだ。そしてそのように考え方を追うことができるのは、作品を通して、なにかしら作者の一貫した秩序が形成されているからに他ならない。すぐれた作品は、ある面で『パンセ』でもあり、『エチカ』でもあり、『純粋理性批判』でもある。
 では、「信念」、「物書き自身の思考体系」というのは、どのようにして形作られていくのか。人生における様々な選択の場面で、なにが正しいか、なにがより有効かを考えていく上で、先人たちの思考体系に触れることができる文学、それも長い時代の移り変わりに耐えて高い普遍性を持った古典文学は、絶好の材料だ。ただし、これについて、ショーペンハウアーボルヘスイタロ・カルヴィーノといった作家たちは、口を揃えて「古典を読むにあたって、評論から読んではいけない」と語っている。古典は自分なりの思考を触発するいい材料となるが、他人の意見をあらかじめ念頭に置くことは、それを阻害してしまう危険性を帯びている。

 まずは、歴史の大海に飛びこみ、手探りで路を見つけ出すこと。それがもっともすぐれた海図を描きだす方策だろう。現状、わたしは自分の無学さと凡庸さに直面しながら必要な時間の果てしなさを思うばかりだから、生きている間にまともな形になるかは怪しいが……。
 なんか、『安愚楽鍋』の記事なのに、『ファウスト』のほうがメインっぽくなってしまった。てか岩波文庫の『安愚楽鍋』は解説のほうが本編の先に配置されているから、わたしはバリバリこの低評価な解説を念頭に置いて読んでいたのだが、まあ細かいことは気にしないでくれ。