鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【プラトン】『ゴルギアス』『プロタゴラス』――不正がバレないよりは冤罪になったほうがいい!?

 第二のタイプはソフィスト、詭弁家だ。「~らしさ」を求め、他人の目に哲学者らしく映ることに幸福をもとめる。かれらはこれを真剣に研究している。

アルトゥル・ショーペンハウアー『自分の頭で考える』鈴木芳子訳)

 

 

 ゴルギアスといえば、高校世界史でプロタゴラスとともに教えられるソフィストの代表選手だ。ここ最近、『プロタゴラス』と『テアイテトス』を読んでいたので、ソフィストつながりで『ゴルギアス』を再読してみた。

 

 プロタゴラスがなんどかソクラテスにイライラしていたのに比べると、ゴルギアスは物腰が柔らかい印象がある。対話篇中での主な対話相手が本人ではなく弟子のポロスとカリクレスで、ソクラテスに反論している印象があまりないのも一因だろう。会話の合間合間にソクラテスを褒めていて、なんだか“いい学校の先生”のような雰囲気だ。一方、「ひとを意のままに操ることができる術」として弁論術のすばらしさを語る姿は、RPGの魔王さながらで、その力を沸き立たせるような語り口に「おお! 弁論術とはたしかに素晴らしい技術だ!」となってしまいそうになる。プラトンの想像がどれほど占めているかはわからないが、カリスマで聴衆を惹きつける「演説家」として、うまく描写されている。

 ソクラテスにいわせれば、弁論術というのは、技術ではなく経験、たんなる処世術の一種ということらしい。いまの世でも、「100%のこたえなどない」とか「価値観はひとそれぞれ」とか、なにかの反論になっているようで、とくになにもいってない処世術が、議論の場で使われることは多い。D・カーネギー自己啓発書『人を動かす』には「議論をさける」「誤りを指摘しない」なんてことが書かれていて、ものごとの正誤を検証しない、という態度は社会的に歓迎されやすいことがうかがえる。世の大多数は、正しさについてあれこれこだわる人間よりも、寛容で他人を否定しない人間を「ほんとうに頭のいいひと」ということにしておきたいものだ。支配者の立場になりたいなら、ソフィストの術はたしかに有用だといえる。

 しかし、『ゴルギアス』内でのソクラテスは、弁論術を用いて支配者になることに否定的だ。社会的な地位を得るために欺瞞を重ねていく弁論術は、魂にとって善い行いではない。それゆえ、けっきょくは支配者の立場になっても、自分にとって善いことをしているとはいえない……とのことだ。これを語る中で、ソクラテスは「不正がバレないでいるよりも、冤罪で裁かれるほうが善い」とまでいっている。事実、ソクラテスは、『クリトン』で自分の発言の論理を一貫するため自ら刑殺を選んでいた。『ソクラテスの弁明』同様に「死後の世界」が引き合いに出されていて、古代アテネ人と同じ宗教観を持ち合わせていないわたしにはそのまま首肯することはできないものの、「論理的な一貫性が価値を生む」という見解には注目しておこう。

 “ことば”は、なにかの基準を設けなければどこまでも開けてしまう。このことばの開きを利用し、目的に応じた枠をその都度設けていくのが、ゴルギアスたちソフィストの手法だ。一方、『プロタゴラス』でプロタゴラスを追い詰めていくソクラテスを見ていると、なにかの主張がなされるたび、互いにことばの定義を確認している。新しい枠を好き勝手に作らせないために、両者のうちでことばの枠を規定している。これが『テアイテトス』で言及されている「産婆術」の手法で、ソフィストたちへの対抗手段なのだろう。アリストレスが「学問の祖」となったのは、数多の理論の枠を設定し、整理したことによるが、師のプラトンの著作のうちにその萌芽を見ることができる。