鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【プリマジ】第7話 ツイッターが使えないのでプリマジを見てたら溶けた

 ツイッターがとうとう使えなくなってしまいました。フォロワーさんたちとの愛にあふれた交流が終わってしまうなんて悲しくてたまりませんが、わたしの人生はまだまだ続きます。とりあえずプリマジ見ながらこころを癒すことにします。

 は~~、ワンモア腹筋する甘瓜かわええ~~、まつりとみゃむのかけあいも癒されるし、ひな先と皇氏も顔を見ると実家に帰ってたような安心感がある。つーかまつりちゃんスタイルよすぎ~~えっっ!!!!😍🔦(←サイリウム)「ah!!デリシャス!!やっぱマツリチャンは最高ダネ……」
 もはや感想ではなくただの感情の垂れ流し。しかしツイッターはこうした緊張を解いた感情の受け口になってんじゃないかといまになって思える。なくなれば新たな場所をつくるだけ……。
 第7話はみゃむがうっかり魔法界に帰ってにゃん爺との絆を再認識する回なわけですが、こうしてみると、やっぱ安息の場は必要ですね(???)。多幸感満載の気持ちよいdream world。この回の最後の甘瓜みるきのように、わたし was 溶けtour……😊😊😊

【S・シン】『数学者たちの楽園』──2023年上半期の本ベスト10を発表!

 タイトルに書かれている通り、これといった前置きはいれずにベスト10を発表していく。

 

第10位 『ナポレオンの剃刀の冒険』(エラリー・クイーン

 ラジオドラマとして不特定多数の聴衆をたのしませる必要があった本作は、「謎が魅力的」「情報の提示が明確」「多くの人間が参加可能」と、パズラーに欲しい要素が必然的に揃えられている。形式の持つ力を大御所中の大御所から再確認させてもらえるのはありがたい限り。


第9位 『神曲 地獄編』(ダンテ・アリギエーリ)

 ダンテの根底にあるアリストレス学派の思想がこの世界を形作っているのではないか、という発想に至ると、ヴェルギリウスと歩く地獄の光景が、じつに論理的で秩序だったもののように思えてきた。時代遅れだと思っていた部分も含め、作品世界の構築において学べる部分が多い。


第8位 『徒然草』(吉田兼好

 吉田兼好エスプリまじりの警句を思い返すたび、身を正さなくては、という思いにかられる。これらがうるさいように感じないどころか、親しみをもって感じられるのは、吉田兼好自身がふにゃけた人間だったからじゃないかと今回読んで思った。劣等生は劣等生なりに精進すべし。


第7位 『チャイナ蜜柑の秘密』(エラリー・クイーン

 長らく国名シリーズの中では高い評価をしていなかった作品。しかし、『オランダ靴』、『ギリシャ棺』、『エジプト十字架』の読書会を通して「モチーフによる作品の統一」について考えると、評価が改まった。「The Chinese Orange」でどこまで作品世界を覆うことができるか。漠然としたイメージの理解から事件を解体しようとするエラリーの動きも興味深い。


第6位 『数学ガール』(結城浩

 そのジャンルの知識がない読者を導くにはどうすればいいか、ということを考えるにあたって、この作品が小説の形式になっていることは注目に値する。ミルカさん-主人公-テトラちゃんの師弟関係(?)を追っていくうちに、読者も数学に熱中するサイドに引きこまれていくような感覚になるのがいい。母関数を介して「フィボナッチ数列」が閉じた式に向かっていく第4章から、一気に世界観が更新されるような感触あり。


第5位 『最暗黒の東京』(松原岩五郎)

 この国において、物語はなんのために書かれ、どう受容されていったのか。戯作文学と政治小説を経てたどりついたこの明治中期のルポルタージュは、ひとつの答えを与えてくれるものだった。同テーマである横山源之助の『日本の下層社会』もおもしろい一冊だったが、本書は肌に迫るような迫力において、一線を画している。悪臭、痒み、疲労感、汗の味、汚水の染み、虫の羽音。文体と主観性の持つ力を印象づけられた一冊。


第4位 『寒い国から帰ってきたスパイ』(ジョン・ル・カレ

 物語にテーマを持たせようとするなら、政治を避けることはできない。愛、友情、信念……、なにを描くにしろ、そこには大なり小なり「社会への関わり」が存在する。ル・カレが見てきた戦後・冷戦期のイギリスへの憤懣は、ミステリーの形式をとっていまもまだ残り続けている。現代で物語を書いてなにかを主張したいと思うなら、まだまだ世の中にたいしての見地を深める必要があると思わされた。


第3位 『五百万ドルの迷宮』(ロス・トーマス)

2週間かけて2回読んだのは、今年逝去した原尞の影響によるもの。そして原尞のいうとおり、この作品の魅力を伝えるのはむずかしい。ウィットの効いた会話、鮮烈なシーンの数々、構図が変化する意外性……なんて定形的なことばでは、本作のおもしろさはまったく伝わらないからだ。ということで、この作品について好きな部分をひとつあげよう。この作品のキャラクターは、男も女も、数ページしか出ないモブキャラでさえも、みなもとめているものがある。そして会話のたびにそのための駆け引きをしている。そんなところだ。


第2位 『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン

 わずかな手がかりから数々の情報を引き出すシャーロック・ホームズに憧れたひとは多いだろう。あのおもしろさの本質は、一見単純に見えるものの中に、たくさんの情報が詰まっているという構図の対称性にあるのではないかと思う。エラリー・クイーンやドルリー・レーンの推理の美しさも同様。そして、本書を読むに、多くの数学者もどうやら数学の問題の証明に関して似たようなことを感じているらしい。外面はわかりやすいフェルマーの最終定理を証明するうえで、数々の歴史的なドラマが存在し、それらが解法という形でひとつの営みに組みこまれていく……。わたしが、ミステリーの美しさの本質と考えているものが、現実の数学の世界ですでに形作られていた。これを興奮せずにはいられるか。自分の求めているものを大きなスケールで明確にしてくれた一冊。


第1位 『数学者たちの楽園』(サイモン・シン


 自作にはさまざまな仕掛けを忍ばせているのだが、それを拾ってもらえることはほとんどない。それどころかふだんどういうものを作っているのか理解されることすら稀で、しばらく完全に拗ねてしまっていた(自作解説するとおどろいてもらえるがそういうのは気づいてほしいのだ)。しかし、『シンプソンズ』の制作者たちが、一般の視聴者たちには到底理解できないような高度なネタを作品の隅々にまで盛りこんでいることを知って、襟を正した。大事なのは、作者が必要だと思ったロジックがどれだけ作品世界で一貫されているかだ。直接理解されるかどうかはともかくとして、こうしてつくりこみはけっして無駄にはならない、と思い直した。

 以上。年末に2023年のベスト20を発表する予定(とくに語ることがないので淡白な結びになった……)。

【吉田兼好】『徒然草』「第41段」──ほんとうは劣等生の回顧録?

 メモによると、5月28日に『徒然草』を読み終えたらしいが、その瞬間のことをおぼえていない。現代語訳ですでに既読済みだったし、その後もたまにちらほら読み返していたから、「これで終わった」という感触がなかったためかもしれない。
 今回原文で読んでいてたびたび思ったのが、「いっていることとやっていることが違うな」ということだった。すでに弊ブログでもなんどか取りあげているが、「第111段」では「双六は死刑並の大罪だ!」という意見に共感を示しているのに、「第110段」では達人に双六の必勝法を訊いている。「第175段」では酒を飲むことの醜悪ぶりを書き連ねはじめたかと思いきや、後半で途端に酒を通じた人間関係の愉しみについての話に切り替えている。なんというか、優柔不断だ。しかし、このように見え隠れする意志の弱さが共感を呼び、慰められるような気分になる。
 徹底したものには、いつでも恐ろしさがつきまとう。『ルバイヤート』のウマル・ハイヤーム、『パンセ』のブレーズ・パスカル、どちらも史上の天才中の天才といって過言ではない人物だが、その著書は、読んでいくうちに底冷えするような感覚が与えられる。科学者、そして神学者ゆえの論理の徹底ぶりが背後にあるためだろう。虚無や無限といった概念への「畏れ」に、無力感にも近い、暗澹たる気分にさえさせられてしまう。
 『徒然草』から伝わってくる吉田兼好の人物像は、かれらのような“極めた”人間のものではない。「ああすべきだ、こうすべき」だと考えながらいつも身を清くしようとこころがけているが、一時の欲に負けて遊びや酒をたのしんでしまう。それからさまざまな理屈を考えて自分を戒めるが、しばらくしたらまた欲に負けて時間を浪費する。そんな自分や、それと大差ない世の人間たちの矮小さを感じながら、毎日を徒然と過ごしている。厭世的な気持ちと俗な気持ちをともに持ち合わせ、世の中の愚かさをくだらなく思っている一方で、たのしんでもいる。「第188段」では、説教師にふさわしい人物になるべくいろいろな物事の稽古に手を出してしまったせいで、肝心の説経を習う暇がなく年をとってしまった坊主を例に出し、「ひとつのことを励むと良い」と述べているが、これは吉田兼好が自分自身の人生を省みて感じたことではないだろうか。

「我等が生死の到来ただいまにもやあらん。それを忘れて、ものみて日を暮らす。おろかなることは、なほまさりたるものを。」
吉田兼好徒然草』)

 

 人生は短く、いつ終わりがくるかわからない。それなのに、みなそのことを忘れて毎日を過ごしている。『徒然草』の中でもとくに印象的な「第41段」だが、これは自分自身にたいする大きな戒めだったのかもしれない。
 こうして見えてくる吉田兼好の人格は、「こうありたい」よりも「自分に近い」と思えるものだ。目指すものへの努力に専念したいのに、興味がさまざまな方向へ散ってしまう。周りは精一杯努力して先に進んでいるのに、わたしはなんてダメなやつなのだろう……となる。
 しかし、「秩序に近づきたい」という気持ちを持ち続けることはできる。失敗をするたびに教義に戻り、またすこしずつ前進していく。『徒然草』は、そうした劣等生の慎ましい営みの軌跡なのだ。
 それに美を見出すこと、それは自分自身の人生の肯定となる。

 

 人間の弱さは、人がつくり上げる、かくも多くの美の原因である。たとえば、リュートを上手にひけることなど。(そんなことができないのが)悪いというのは、われわれの弱さのためだけである。
ブレーズ・パスカル『パンセ』前田陽一・由木康訳)

 

 “極めた”人間として紹介したパスカルだが、かれ自身は、数学者ではなく、普遍的な人間であるオネットムでありたいと『パンセ』の中で述べている。

【清少納言】『枕草子』「十九 たちは」──「たちは たまつくり。」

たちは たまつくり。

(清少納言枕草子』)

 6月中に『枕草子』を完読しようとちまちま読み進めていたら、こんな文章が出てきた。たちは たまつくり。この十九段にはこれだけしか書かれていない。講談社学術文庫の『枕草子』はありがたいことに全訳注つきなのだが、現代語訳もそのまま「たちは たまつくり。」だった。語釈によれば、この「たち」が「館」「太刀」の両説あり、また「渡(わたり)」の誤りだという意見もあって、意味を断定することができなかったようだ。(※「たま」は「渡」との説ありと書いたが、見誤りだったため修正)

原は みかの原。あしたの原。その原。

(清少納言枕草子』)

 本書の解説で「類聚的章段」と呼ばれている段は、このように、なにか一定のものごとについて、そこから連想するものを「○○と△」羅列する形式をとっている(「春は曙」を思い出すひとがいるかもしれないが、こちらは「随想的章段」に分類されている)。その中でも、この「たちは たまつくり」は極端に短い。ブログタイトルに全文をそのまま載せられるほどだ。

 なにかものづくりするにあたって、「しっかりやるぞ!」「工夫するぞ!」という気概が大きくなりすぎて、なかなか手にかかれなくなることは少なくない。タスクの印象が頭の中で大きくなりすぎて、めんどくさくなるためだ。そんな気分に対して、『枕草子』の「類聚的章段」の簡素さは、なんとも見ていて気が楽になる。「たちは たまつくり。」だけで作品成立である。そのうえ、意味すらはっきりしていない。でも、いい。「たちは たまつくり」。館か太刀か渡かはわからないが、「あれいいよね……」という清少納言の気分が妙につよく伝わってくる。

 気負わず、楽天的に。思うがままに。紫式部には「浅薄」「短慮」とでも評されそうだが、たまには肩の力を抜いて書いてみたものも悪くない。と、いうことで、この記事はこのようにほんの10分ちょいでさらさらと書いたのだった。

【ショーペンハウアー】『読書について』「著作と文体について」──「流麗な文章」よりも深いことをいうためにはどうすべきか?

 学研のテキスト『ニューコース参考書 中学国語』を使って日本語を勉強している。日本語の文法の入門書として手頃な本をあちこちで探し回った結果、これがもっとも使いやすいと判断した。文法事項を基本から説明してくれており、体系的に理解できる。助詞・助動詞に関する細かい分類やそれぞれの意味の概要が載せられているのもありがたいところだ。「あんた中学生レベルなのか……」と呆れる読者もいるだろうが、わからんものはごまかし続けていても仕方がない。
 世に発信したい考えが、頭の中にいくつもある。しかし、その多くは、思いつきの範疇を出ていない。ぐにゃぐにゃした不定形の落書きとなって、紙束の山となっている。他人に見せられる形にするには、適した骨組みを描いて、そこからさらに細部を書きこんでいく必要がある。自分が扱うことばについて理解していないのは、人物画の髪の毛先を描きたいにも関わらず、自分が使っている道具が絵筆なのかクレヨンなのかわかっていないのと同じだ。もしそこでクレヨンを使ってしまえば、毛先はいびつな形となり、全体の均衡も乱されてしまう。わたしは数々の下書きを、きめ細やかな絵として完成させたい。

 また真の思想家はみな、思想をできる限り純粋に、明快に、簡明確実に表現しようと努める。したがってシンプルであることは、いつの時代も真理の特徴であるばかりでなく、天才の特徴でもあった。似非思想家のように、思想を文体で美々しく飾り立てるのではなく、思想が文体に美をさずけるのだ。なにしろ文体は思想の影絵にすぎないのだから。不明瞭な文章や当を得ない文章になるのは、考えがぼんやりしている、もしくは混乱しているからだ。
(アルトゥル・ショーペンハウアー「著作と文体について」鈴木芳子訳)

凡庸な脳みその持ち主の著作が中身がなく退屈なのは、かれらの語りがいつもいいかげんな意識でなされる、つまり書き手自身、自分の用いた言葉の意味をほんとうにはわかっていないせいかもしれない。かれらは習い覚えた語、出来合いのものを採用する。だから一語一語組み立てるというより、むしろきまり文句(紋切型の言い回し)をつなぎ合わせる。 書き手の明確でくっきりした思想が浮かび上がってこないのは、そのせいだ。すなわち、かれらには自分の明快な考えを打ち出す、いわば型押し機がない。その代わり、不明確であいまいな言辞を網状にはりめぐらせ、よくある常套句、 使い古された言い回しや流行語を用いる。そのため、かれらの薄ぼんやりした著作物は、使い古しの活字を使った印刷物のようだ。
(アルトゥル・ショーペンハウアー「著作と文体について」鈴木芳子訳)

「著述と文体について」はショーペンハウアーの著作の中で感銘を受けたもののひとつだ。文体に血を通わせるためには、ことばひとつひとつに「これでなくてはならない」という必然性を持たせなければならない。歴史的に規定されてきたことばの意味や、体系化された構造を知らずして、それを行えるだろうか。まずは、自分が自分自身の文章の分析者になる必要がある。小説の感想で、「流麗な文章」「硬質な文章」「無駄のない文章」のようなぱっと見の印象をあげたものをよく見るが、ここよりさらに先に進むには、言語自体への理解を深めなければならない。

占筮者が自分の運命を占い得ないのと同様に、脳髄が脳髄の事を考え得ないのは、当り前の事として誰も怪しまなくなってしまっている。
(夢野久作ドグラ・マグラ』)

 ふだん日本語を使って思考をアウトプットしている人間が、表現媒体である日本語自体について考えるのはむずかしい。直感でとらえてしまっている部分は、どうしても見逃してしまいがちになる。
 役立つ方法としてあげられるのが、「異なった文脈上の日本語」に触れることだ。ほとんどのひとが経験的に知っているだろうが、古文や翻訳文はすらすら読むことがむずかしい。文化的な差異、文章の構造の違い、そういったふだん目にする言語との距離が、経験的につくられてきた数々の読み飛ばしの技術を阻害するためだ。そこで字面を追う上で「わからない」という場面に幾度となく遭遇し、文章にたいして注意を払わなければならない場面が増えてくる。自分がこの情報を理解する上で、どういった文脈を認知する必要があったのか。それがわからなかった理由は何なのか。どうしてこのような表現方法を選ぶ理由があったのか。これが、文章自体について考える絶好の機会となる。
 去年、高校古文を勉強したことによって、ふだん使っている日本語を「読めないもの」として感じることができたのは、大きな収穫となった。古文の内容を読み取る上で必要となる、「き・けり」や「たり・り」のような日常とは違ったことばの解釈、活用と接続のほか各品詞の知識があってはじめて行える文の成分の解体。この経験によって、ふだん自分が使っている言語自体を、論理的な体系の中にあるものとして意識できるようになったためだ。
 それにしても、ショーペンハウアーの文章はどこをとってみても脳に突き刺さるように鮮烈だ。情報を伝達することに関しての作者の配慮が端から端まで行き届いているからだろう。「著述と文体について」では、恣意的・抽象的な表現を多用する作家への批判が述べられているが、その批判自体が、それらとは対照的な精緻な文章で形作られている。こういう文章を書きたいものだ、と『読書について』を読み返すたびに思わされる。

【紫式部】『源氏物語』「幻」「雲隠」──半年ともに過ごした友、死す

 昨夜、『源氏物語』の「幻」を読み終わった。半年かけて読んできた源氏の物語がついにここで終わりを迎える。
 この章は虚無にも似た静かさだけがある。前章「御法」で紫の上を喪った哀しみに暮れながら、源氏は自分の人生は哀しみ続きだったと話し始める。だれもが知るこの上ない美貌を持ち、数々の女性と関わりを持ち、知性も芸術の才もこのうえなくすぐれ、天皇と同格の地位にまで上りつめた源氏の人生。ここまで40章近く追ってきた物語が、ここにきて「哀しみの連続」と断じられてしまう。紫の上との思い出すら「哀しみを強くするだけ」と切り捨られて、これまで関わった女性たちとの手紙が次々と破られ焼き払われてしまう様子は、これまでのすべてが否定されたかのような印象を受ける。
 月並みかもしれないが、「この物語ってなんだったんだろうな」と思えてしまった。おのれの力を存分に振りかざし、朱雀帝たち周囲の人間を踏み台にして、欲しいものをなんでも手に入れてきた源氏には、最終的に哀しみしか残らなかった。宝探しの物語は、主人公が宝を得た時点で終わりを迎えることができるが、人生はそうではない。道中で得た宝がとつぜん無価値になる瞬間が、どこかにある。
 いまにして思えば、『源氏物語』では、なにかを手に入れようとする気持ちが厄介ごとの引き金となっている。柏木がそうだろう。夕霧も二の宮に近づこうとした結果、雲居の雁との仲がこじれはじめている。六条御息所も年下の源氏のことなど相手にしなければ怨霊にはならずに済んだはずだ。源氏の誘いをすげなく断って出家した朧月夜の返歌は、なんと透き通っていることか。
 哀しみに暮れながら、社会との関わりをすこしずつ断っていく源氏。自分になされる長寿祈願をわずらわしく思いながら、祭事や祝賀に手を尽くすようになる。個人としての欲が消えていっていることがわかる。
 ラストシーンの光源氏は、年老いながらも、若き日よりもさらに美しさが増し、それを見た老僧が涙を流すほどだった。この美しさの源はなんだろう、と考えてみても、明確なこたえを出すのはむずかしい。「死」や「利他」ということばにおさめてしまうと、この夏の夢の中にあるような神々しさが失われてしまうからだ。
 源氏の最期が描かれていたであろう「雲隠」は章題だけが存在し、その内容を知ることはできない。それでよかったような気もする。栄華の中から薄れゆくように消えていき、知らぬ間にひっそりといなくなっている。光源氏の最期としてこれほどふさわしいものがあるだろうか。
 すでに瀬戸内寂聴訳の『源氏物語』は10巻まで購入してあり、「さあ、つぎは宇治十帖だ」と意気ごんでいたのだが、しばらくは続きを読む気がしなくなった。今朝からずっと冷たい雨が続いていて、気圧の低下が身体を重苦しくしている。カーテンで窓をふさいだ部屋の中、雨音にまぎれて車が行き交う音がわずかに聞こえている。

【米澤穂信】『ボトルネック』──主人公ははなまるうどんで満足すべきだった?

 先週の読書会中、以前ブログでとりあげた「鬱漫画ランキング」の作者が「鬱小説ランキング」なるものを作っていたことを知った。会内では当初ぶっ飛んだ紹介文に注目が集まったが、しばらくすると、例によって「この中にあるこの作品ははたして鬱なのか?」という方向に話題が移っていった。米澤穂信の『ボトルネック』はその中で言及された作品のひとつだ。

 この作品の主人公は、流産に終わったはずの姉が無事に生まれ、そのかわりに自分が生まれなかった「ifの世界」を体験する。そちらの世界では自分がもともといた世界より万事うまくいっており、自分はもしや世界にとって不要な人間なのでは……という方向に話が進んでいく。
 読んだのは10年ほど前のことだ。当時は「近所のうどん屋が閉まったのがそんな大事か」くらいの印象しか持たなかった。いまは「近所のラーメン屋が火事で閉まったのは大事件だった」程度には変化している。
 読書会の参加者のひとりであるアキラさんはこの作品を気に入っていて、「十分救いの道はある」「悪い読後感ではない」という見解を持っていた。これについてわたしは同意見だ。主人公は自分を世界の停滞の原因である「ボトルネック」と評したが、逆にいえば、それは、それだけ他人の人生に大きな影響を与えているともいえる。『さよなら妖精』や『真実の10メートル手前』、「死人宿」(『満願』)などほかの米澤穂信の作品では、「他人の人生に影響を与えられない無力さ」のような感情に焦点が当てられていることがあるが、ちょうどその逆だ。心がけ次第では周囲に好影響を与えられるかもしれない可能性が示されたのは、十分救いとなりうるだろう。
 また、アキラさんは、少年時代の「生きる意味を考える経験」について触れていた。これはほかの参加者も共感を示していたところで、世の中における自分の立ち位置がまだ明瞭でない少年少女には身近な問題だろう。この作品では「ifの世界の自分に当たる人物」という比較対象の存在によって、主人公が相対化される。多くの人間は、なんらかの面において「自分よりすぐれた存在」を認識することになるが、主人公から見た姉は、そうしたものにたいする感情を浮き彫りにする役割を持っている。変則的だが、他者との関係のなかで自分について見つめ直す成長物語の形式にもなっている。
 本作のラストシーンについて悲観的な推測をする読者はすくなくない。「鬱小説」なんてハンコが押されてしまった原因はそこにあるのだろう。わたしが思い浮かべたのは、フランソワ・トリュフォーの映画『大人は判ってくれない』だった。あの映画のラストシーンでは、逃走した主人公の少年が、この先行き場のない海岸で立ちつくし、振り向いてカメラ(つまりは観客たち)に眼を向ける。「自殺の示唆」のような解釈が多くあったそうだが、トリュフォー本人によれば、「さあ、どうしますか」という観客への質問だったということだ。わたしも本作のラストシーンの役割はこれと同様のものと考えている。読者の多くは、主人公と同様に、社会生活を送る中で、目前にあるなにかしらの問題に対処しなくてはならない。それにどう向き合うかは、読者次第、ということだ。ちなみに、米澤穂信は後に『追想五断章』というリドルストーリーをテーマとした作品を書いている。

 このような作品の構成から、本作は「では主人公はこれからどう生きるべきなのか」という方面から語られることがある。フォロワーの藍川陸里さんが本作の主人公について、「姉にどうしたらそんな風に生きられるか教えてもらえばいい」と発言していたことがあった。ポジティブなとらえかただが、教えを請われた側は迷惑千万だろう。そもそもそのように他人に頼れる手段を身に着けられているなら、あんな暗い野郎にはなっていないはずだ。ではなにをすべきか。『スプラトゥーン3』だ。「社会で自分が果たすべき役割」を考えの基軸にしていることが、生を肯定するうえの足枷となってしまっている。まずはだらだら自分だけのたのしみを見つけるのがよい。コントローラーを布団に叩きつけながら役に立たない味方に暴言を吐き、管理しようとする母親にたいして「勝手に入ってくんじゃねえババア!」といえるようになる。それは“自立”のはじまりだ。健全な高校生になるにはやはりスプラが有効手段といえる。