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こい(@gyaradus)のブログ

【平安文学】『紫式部日記』──「夢は自分の手で掴みとる」とかいう人間のつまらなさ

かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行く末うたてのみ侍るは。
(紫式部紫式部日記』)

 大学時代の後輩が、小説家をやっている。学生時代に、かれが書いた作品はいくつか目を通していた。印象に残っているのは、「現実を詰めこんだ長方形の箱が街を走っている。」のような比喩の多用、カラーリングされた色紙に肉筆で書くというスタイル、「銀座で作品を公開した。」や「自分の作品を○○人が買った。」という積極的な宣伝といったところか。「夢は自分の手で掴みとる」という標語をかかげ、それに共感する知り合い数名と互いの作品を褒めあいながら、創作活動に励んでいた。
 かれは自費出版で作家デビューをはたした。顔写真つきの個人サイトを覗くと、私小説(「私小説」ではなくかれ独自の造語で表現されていた)が公開されている。概要を見る限り、そこには、「悲しい過去」だの、「人生を変えてくれたひととの出会い」だの、劇的らしい人生が描かれているようだ。

「いまぼくのことをきわだったところのない人間だとおっしゃいましたね。でも、公爵、考えてみてくださいよ、現代の人間にとっては、おまえはきわだったところもなければ、性格も弱い、これといった才能もない、きわめて平凡な人間だと言われるほど侮辱的なことはありませんからね。」
(フョードル・ドストエフスキー『白痴』木村浩訳)

「なぜみんなが自分のことを卑劣漢と呼ぶのだろう?」という問いに「そんなことはない。あなたは悪党ではなく、平凡なひとだ」と返されたガーニャは、ムイシュキン公爵にたいしてこのように不快感を示した。
 自分は周囲と違っている、ということをアピールしたがる人間がいる。そういうひとは、ガーニャのように「自分ではそう思わないけどヤバいってひとにいわれた」と発言してみたり、あるいは自分の発言にツッコミどころをつくって知り合いにヤバいといわせてみたり、いろいろな小細工をするのだが、けっきょく、「そのヤバさのなにがすごくておもしろいんだ?」となることがほとんどである。
 他人と違っていたいのに、容姿や学歴、絵などのなにかしらの技能といったわかりやすい後ろ楯がない。すると、けっきょく、「性格」とか「経験」とか、あるいは「えらい人と知り合い」といったもので自分を異化するしかなくなる。しかし、いくら自分の体験談を美化しようが、自分に優しいコミュニティーを作ろうが、そのひとがほしがっているようななにかしらの価値は生まれない。

「……われわれは選ばれた人々でした。偶然によって結びついた天才の小グループ。因習的な世間や偏見などを超越して悠々飛翔していると信じ合っていました。」
(ジョルジュ・シムノン『サン・フォリアン寺院の首吊り人』水谷準訳)

 小説家のかれは、自作を公開してからしばらくして、「自分の作品が合うひとに届けるのが大事」という結論に至ったようだ。「他人にこういう人間だと思われたい」以上の機能を持たないコミュニケーションツールに胸を打たれるひとがどれくらいいるかは知らない。

かく、かたがたにつけて、一ふしの思ひ出でらるべきことなくて過ぐしはべりぬる人の、ことに行末の頼みもなきこそ、なぐさめ思ふかただにはべらねど、心すごうもてなす身ぞとだに思ひはべらじ。
(紫式部紫式部日記』)

 紫式部ショーペンハウアーゴーゴリ、チェスタートンのような、わたしが非凡で興味深いと感じるひとたちは、みな「普通」であることの価値を論じている。また、「古いもの」の力を信じている。
「共感」や「達成」以上に、「周りと異なる満足感」のような退屈でありふれたものを懐疑させてくれる力を含んだ作品を読みたいものだ。

「詩人とは違うんだね。詩人てのは、個人主義者。勝手な服装をするがいいさね。自分だけが頼りなんだな。他人が頼りなんですよ、小説家てえのは。小説家、即、表現力を持てる平均人、ね。スパイなんだな」
(グレアム・グリーン『スタンブール特急』北村太郎訳)