鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【ショーペンハウアー】『読書について』「著作と文体について」──「流麗な文章」よりも深いことをいうためにはどうすべきか?

 学研のテキスト『ニューコース参考書 中学国語』を使って日本語を勉強している。日本語の文法の入門書として手頃な本をあちこちで探し回った結果、これがもっとも使いやすいと判断した。文法事項を基本から説明してくれており、体系的に理解できる。助詞・助動詞に関する細かい分類やそれぞれの意味の概要が載せられているのもありがたいところだ。「あんた中学生レベルなのか……」と呆れる読者もいるだろうが、わからんものはごまかし続けていても仕方がない。
 世に発信したい考えが、頭の中にいくつもある。しかし、その多くは、思いつきの範疇を出ていない。ぐにゃぐにゃした不定形の落書きとなって、紙束の山となっている。他人に見せられる形にするには、適した骨組みを描いて、そこからさらに細部を書きこんでいく必要がある。自分が扱うことばについて理解していないのは、人物画の髪の毛先を描きたいにも関わらず、自分が使っている道具が絵筆なのかクレヨンなのかわかっていないのと同じだ。もしそこでクレヨンを使ってしまえば、毛先はいびつな形となり、全体の均衡も乱されてしまう。わたしは数々の下書きを、きめ細やかな絵として完成させたい。

 また真の思想家はみな、思想をできる限り純粋に、明快に、簡明確実に表現しようと努める。したがってシンプルであることは、いつの時代も真理の特徴であるばかりでなく、天才の特徴でもあった。似非思想家のように、思想を文体で美々しく飾り立てるのではなく、思想が文体に美をさずけるのだ。なにしろ文体は思想の影絵にすぎないのだから。不明瞭な文章や当を得ない文章になるのは、考えがぼんやりしている、もしくは混乱しているからだ。
(アルトゥル・ショーペンハウアー「著作と文体について」鈴木芳子訳)

凡庸な脳みその持ち主の著作が中身がなく退屈なのは、かれらの語りがいつもいいかげんな意識でなされる、つまり書き手自身、自分の用いた言葉の意味をほんとうにはわかっていないせいかもしれない。かれらは習い覚えた語、出来合いのものを採用する。だから一語一語組み立てるというより、むしろきまり文句(紋切型の言い回し)をつなぎ合わせる。 書き手の明確でくっきりした思想が浮かび上がってこないのは、そのせいだ。すなわち、かれらには自分の明快な考えを打ち出す、いわば型押し機がない。その代わり、不明確であいまいな言辞を網状にはりめぐらせ、よくある常套句、 使い古された言い回しや流行語を用いる。そのため、かれらの薄ぼんやりした著作物は、使い古しの活字を使った印刷物のようだ。
(アルトゥル・ショーペンハウアー「著作と文体について」鈴木芳子訳)

「著述と文体について」はショーペンハウアーの著作の中で感銘を受けたもののひとつだ。文体に血を通わせるためには、ことばひとつひとつに「これでなくてはならない」という必然性を持たせなければならない。歴史的に規定されてきたことばの意味や、体系化された構造を知らずして、それを行えるだろうか。まずは、自分が自分自身の文章の分析者になる必要がある。小説の感想で、「流麗な文章」「硬質な文章」「無駄のない文章」のようなぱっと見の印象をあげたものをよく見るが、ここよりさらに先に進むには、言語自体への理解を深めなければならない。

占筮者が自分の運命を占い得ないのと同様に、脳髄が脳髄の事を考え得ないのは、当り前の事として誰も怪しまなくなってしまっている。
(夢野久作ドグラ・マグラ』)

 ふだん日本語を使って思考をアウトプットしている人間が、表現媒体である日本語自体について考えるのはむずかしい。直感でとらえてしまっている部分は、どうしても見逃してしまいがちになる。
 役立つ方法としてあげられるのが、「異なった文脈上の日本語」に触れることだ。ほとんどのひとが経験的に知っているだろうが、古文や翻訳文はすらすら読むことがむずかしい。文化的な差異、文章の構造の違い、そういったふだん目にする言語との距離が、経験的につくられてきた数々の読み飛ばしの技術を阻害するためだ。そこで字面を追う上で「わからない」という場面に幾度となく遭遇し、文章にたいして注意を払わなければならない場面が増えてくる。自分がこの情報を理解する上で、どういった文脈を認知する必要があったのか。それがわからなかった理由は何なのか。どうしてこのような表現方法を選ぶ理由があったのか。これが、文章自体について考える絶好の機会となる。
 去年、高校古文を勉強したことによって、ふだん使っている日本語を「読めないもの」として感じることができたのは、大きな収穫となった。古文の内容を読み取る上で必要となる、「き・けり」や「たり・り」のような日常とは違ったことばの解釈、活用と接続のほか各品詞の知識があってはじめて行える文の成分の解体。この経験によって、ふだん自分が使っている言語自体を、論理的な体系の中にあるものとして意識できるようになったためだ。
 それにしても、ショーペンハウアーの文章はどこをとってみても脳に突き刺さるように鮮烈だ。情報を伝達することに関しての作者の配慮が端から端まで行き届いているからだろう。「著述と文体について」では、恣意的・抽象的な表現を多用する作家への批判が述べられているが、その批判自体が、それらとは対照的な精緻な文章で形作られている。こういう文章を書きたいものだ、と『読書について』を読み返すたびに思わされる。

【紫式部】『源氏物語』「幻」「雲隠」──半年ともに過ごした友、死す

 昨夜、『源氏物語』の「幻」を読み終わった。半年かけて読んできた源氏の物語がついにここで終わりを迎える。
 この章は虚無にも似た静かさだけがある。前章「御法」で紫の上を喪った哀しみに暮れながら、源氏は自分の人生は哀しみ続きだったと話し始める。だれもが知るこの上ない美貌を持ち、数々の女性と関わりを持ち、知性も芸術の才もこのうえなくすぐれ、天皇と同格の地位にまで上りつめた源氏の人生。ここまで40章近く追ってきた物語が、ここにきて「哀しみの連続」と断じられてしまう。紫の上との思い出すら「哀しみを強くするだけ」と切り捨られて、これまで関わった女性たちとの手紙が次々と破られ焼き払われてしまう様子は、これまでのすべてが否定されたかのような印象を受ける。
 月並みかもしれないが、「この物語ってなんだったんだろうな」と思えてしまった。おのれの力を存分に振りかざし、朱雀帝たち周囲の人間を踏み台にして、欲しいものをなんでも手に入れてきた源氏には、最終的に哀しみしか残らなかった。宝探しの物語は、主人公が宝を得た時点で終わりを迎えることができるが、人生はそうではない。道中で得た宝がとつぜん無価値になる瞬間が、どこかにある。
 いまにして思えば、『源氏物語』では、なにかを手に入れようとする気持ちが厄介ごとの引き金となっている。柏木がそうだろう。夕霧も二の宮に近づこうとした結果、雲居の雁との仲がこじれはじめている。六条御息所も年下の源氏のことなど相手にしなければ怨霊にはならずに済んだはずだ。源氏の誘いをすげなく断って出家した朧月夜の返歌は、なんと透き通っていることか。
 哀しみに暮れながら、社会との関わりをすこしずつ断っていく源氏。自分になされる長寿祈願をわずらわしく思いながら、祭事や祝賀に手を尽くすようになる。個人としての欲が消えていっていることがわかる。
 ラストシーンの光源氏は、年老いながらも、若き日よりもさらに美しさが増し、それを見た老僧が涙を流すほどだった。この美しさの源はなんだろう、と考えてみても、明確なこたえを出すのはむずかしい。「死」や「利他」ということばにおさめてしまうと、この夏の夢の中にあるような神々しさが失われてしまうからだ。
 源氏の最期が描かれていたであろう「雲隠」は章題だけが存在し、その内容を知ることはできない。それでよかったような気もする。栄華の中から薄れゆくように消えていき、知らぬ間にひっそりといなくなっている。光源氏の最期としてこれほどふさわしいものがあるだろうか。
 すでに瀬戸内寂聴訳の『源氏物語』は10巻まで購入してあり、「さあ、つぎは宇治十帖だ」と意気ごんでいたのだが、しばらくは続きを読む気がしなくなった。今朝からずっと冷たい雨が続いていて、気圧の低下が身体を重苦しくしている。カーテンで窓をふさいだ部屋の中、雨音にまぎれて車が行き交う音がわずかに聞こえている。

【米澤穂信】『ボトルネック』──主人公ははなまるうどんで満足すべきだった?

 先週の読書会中、以前ブログでとりあげた「鬱漫画ランキング」の作者が「鬱小説ランキング」なるものを作っていたことを知った。会内では当初ぶっ飛んだ紹介文に注目が集まったが、しばらくすると、例によって「この中にあるこの作品ははたして鬱なのか?」という方向に話題が移っていった。米澤穂信の『ボトルネック』はその中で言及された作品のひとつだ。

 この作品の主人公は、流産に終わったはずの姉が無事に生まれ、そのかわりに自分が生まれなかった「ifの世界」を体験する。そちらの世界では自分がもともといた世界より万事うまくいっており、自分はもしや世界にとって不要な人間なのでは……という方向に話が進んでいく。
 読んだのは10年ほど前のことだ。当時は「近所のうどん屋が閉まったのがそんな大事か」くらいの印象しか持たなかった。いまは「近所のラーメン屋が火事で閉まったのは大事件だった」程度には変化している。
 読書会の参加者のひとりであるアキラさんはこの作品を気に入っていて、「十分救いの道はある」「悪い読後感ではない」という見解を持っていた。これについてわたしは同意見だ。主人公は自分を世界の停滞の原因である「ボトルネック」と評したが、逆にいえば、それは、それだけ他人の人生に大きな影響を与えているともいえる。『さよなら妖精』や『真実の10メートル手前』、「死人宿」(『満願』)などほかの米澤穂信の作品では、「他人の人生に影響を与えられない無力さ」のような感情に焦点が当てられていることがあるが、ちょうどその逆だ。心がけ次第では周囲に好影響を与えられるかもしれない可能性が示されたのは、十分救いとなりうるだろう。
 また、アキラさんは、少年時代の「生きる意味を考える経験」について触れていた。これはほかの参加者も共感を示していたところで、世の中における自分の立ち位置がまだ明瞭でない少年少女には身近な問題だろう。この作品では「ifの世界の自分に当たる人物」という比較対象の存在によって、主人公が相対化される。多くの人間は、なんらかの面において「自分よりすぐれた存在」を認識することになるが、主人公から見た姉は、そうしたものにたいする感情を浮き彫りにする役割を持っている。変則的だが、他者との関係のなかで自分について見つめ直す成長物語の形式にもなっている。
 本作のラストシーンについて悲観的な推測をする読者はすくなくない。「鬱小説」なんてハンコが押されてしまった原因はそこにあるのだろう。わたしが思い浮かべたのは、フランソワ・トリュフォーの映画『大人は判ってくれない』だった。あの映画のラストシーンでは、逃走した主人公の少年が、この先行き場のない海岸で立ちつくし、振り向いてカメラ(つまりは観客たち)に眼を向ける。「自殺の示唆」のような解釈が多くあったそうだが、トリュフォー本人によれば、「さあ、どうしますか」という観客への質問だったということだ。わたしも本作のラストシーンの役割はこれと同様のものと考えている。読者の多くは、主人公と同様に、社会生活を送る中で、目前にあるなにかしらの問題に対処しなくてはならない。それにどう向き合うかは、読者次第、ということだ。ちなみに、米澤穂信は後に『追想五断章』というリドルストーリーをテーマとした作品を書いている。

 このような作品の構成から、本作は「では主人公はこれからどう生きるべきなのか」という方面から語られることがある。フォロワーの藍川陸里さんが本作の主人公について、「姉にどうしたらそんな風に生きられるか教えてもらえばいい」と発言していたことがあった。ポジティブなとらえかただが、教えを請われた側は迷惑千万だろう。そもそもそのように他人に頼れる手段を身に着けられているなら、あんな暗い野郎にはなっていないはずだ。ではなにをすべきか。『スプラトゥーン3』だ。「社会で自分が果たすべき役割」を考えの基軸にしていることが、生を肯定するうえの足枷となってしまっている。まずはだらだら自分だけのたのしみを見つけるのがよい。コントローラーを布団に叩きつけながら役に立たない味方に暴言を吐き、管理しようとする母親にたいして「勝手に入ってくんじゃねえババア!」といえるようになる。それは“自立”のはじまりだ。健全な高校生になるにはやはりスプラが有効手段といえる。

【綾辻行人】『水車館の殺人』──人工的な世界は居心地よい

 

 館シリーズの第2作『水車館の殺人』は、謎解きものとしての印象はあまり強くない。1作目の『十角館』、3作目の『迷路館』はともにメタ的な性質が強く、おどろく仕掛けも用意されている。それに対して、『水車館』は謎解きに関してこれといって新鮮といえるものはない。メインと思わしき仕掛けも途中で検討がついたひとは多いだろう。初読時中学生だったわたしですら、「おや」と思えるようなポイントが見つかり、いくつかの仕掛けは見抜くことができた。

 しかし、『水車館の殺人』は読んでいてたのしいと思える一冊だ。中学時代、教室の座席で読んでいたとき、「なんだそれ?」と不良っぽい同級生(ほんとうに不良だったかどうかは知らない。数学で83点をとっていた)が話しかけてきた。わたしはいかにもたのしそうに、焼却炉からバラバラ死体が転がってくる話だ、とこたえたおぼえがある。それにたいする「うえー、気持ち悪ぃ」という反応が意外で、いまも頭に残っている。

 『水車館の殺人』は上記のような凄惨な場面からスタートするのだが、不思議と気持ち悪くなるような印象はない。舞台である「水車館」がじつに非現実的で、距離を置いて読むことができるからだろう。白いゴムマスクを被った車椅子の男、閉じこめられた美少女、館を飾る不気味な幻想画、そして嵐の中で回り続ける巨大な水車……。こう並べてみると、笑ってしまいそうほど「いかにも」な道具が揃っている。しかし、館シリーズでこのような人工的な道具を存分にたのしめる作品は、本作を置いてない。十角館と黒猫館はいってしまえば山小屋、迷路館と時計館は地下の閉鎖空間がメイン、人形館にいたってはたんなるアパート。それらに対し、水車館は、『十角館』に登場するエラリイくんが好みそうな「館ミステリーのイメージそのままの館」だ。すべてが秩序によって整理されたちいさな世界。テレビゲームにも近い人工性の居心地よさが、そこにはある。
 本作の仕掛けの多くは先述の通り、そこまでむずかしいものではない(といっても全部を当てるのは困難だろうが)。しかし、「わかる」「わからない」の境界線上に置かれたパーツの数々は、読者の想像を絶妙に刺激する。それが読者に「推理」という一種の創作活動を行わせる。創作活動を行う上で、読者は現実を離れて、「空想」の世界に入りこむことになる。人工性も相まって、さまざまな現実のしがらみを離れた、「空想の秩序」の中に身を置くことができるのだ。

彼はまた、文学が提供することのできるさまざまな楽しみのなかで、もっとも大きなものは創作である、とも断言した。
(J・L・ボルヘス「ハーバード・クエインの作品の検討」鼓直訳)

 ミステリーの魅力を伝える中で「騙される」ということばが使われることがあるが、すぐれたミステリーは、読者を「騙す」のではなく「導く」ものだ。有栖川有栖の「スイス時計の謎」、法月綸太郎の「都市伝説パズル」、東川篤哉の「中途半端な密室」などは、たんなるこけおどしを狙った代物よりもはるかにおもしろい。
 さて、ここまで述べたように「非現実性」を強く感じる本作だが、この本を読んでくれた知り合いのひとりは「なんか昼ドラっぽくてさめた」と評したことがある。たしかに、真相で明かされるいくつかの裏側はへんに現実的で生々しい。水車館に集まるメンバーたちも、記号的ではあれど、いかにも俗なひとたちで、その中の正木と三田村などは「俗物」について語りはじめてしまう。しかし、わたしにはそこもまたおもしろく思える。世の常として、「幻想」は「俗」に破られるものだが、この作品の中では「俗」が「幻想」を構成するパーツに過ぎなくなっている。常識の理解を越えたさきに、大きな秩序が存在しているかのようだ。
 人間の歴史においてもっとも古くから存在する機械装置、水車。あらゆる個人的な考えも試みも、その無機質な回転の動力となる。人工性が、秩序がすべてに勝利を収める世界観を示すことにおいて、これ以上ないモチーフではないか。

【綾辻行人】『十角館の殺人』──「謎解きのための謎解き」でべつにかまわない理由

 綾辻行人はわたしにとってルーツといえる作家だ。これまで、「推理小説にはまったきっかけ」を語る機会は多くあって、「はじめて読んだ推理小説」「推理小説を読むきっかけとなったハマった推理ゲーム」など様々な切り口で、これが自分にとってのミステリ趣味のはじまりだ、と語ってきた。そうした例としては、西村京太郎、島田荘司、『頭の体操』の多湖輝といった面々があげられる。しかし、「ミステリーを読む」「ミステリーを書く」といった営みを行う上での軸は、綾辻行人によって形作られたと断言してもいい。

 綾辻行人のミステリは鮮烈な体験を与えてくれる。中学生のころのわたしは、『十角館の殺人』の結末にある“あの一行“を見て、多くの初読者と同じように大きなショックを受けた。それまで作家読みを行っていなかったわたしが、『水車館の殺人』、『迷路館の殺人』、『緋色の囁き』と綾辻行人の作品に手を伸ばしていったのは、あのときの体感をもう一度得たいという思いに駆られたからだ。
 綾辻行人のミステリは歴史を含んでいる。ジョン・ディクスン・カーヴァン・ダインバロネス・オルツィといった大御所たちの存在を知ったきっかけは『十角館の殺人』だった。法月綸太郎有栖川有栖麻耶雄嵩辻村深月といった後に続くミステリの書き手の存在を知ったのも、綾辻行人を追う道の途中でのことだった。
 綾辻行人のミステリは実験的だ。『十角館の殺人』は、あんなに神様が顔を出して、視点をなんども移動させているが、現代の国内小説の作法として良いのだろうか。しかし、あのおどろきを演出するにはこの方法以外あるまい。『霧越邸殺人事件』や『どんどん橋、落ちた』は、革新的でありながらそのまま用いては小説の体をなすことができないトリックが用いられている。しかしながら、綾辻行人はそれを切り捨てるのではなく、作品の世界と調和させて、おもしろみにまで昇華させてしまっている。

 子ども時代のわたしが謎解きをつくるにあたって、まず模倣しようと考えたのは綾辻行人だった。叙述トリックのような手法は(一見)真似しやすく、残酷な描写は描いていてたのしい。作品構造を真似るために作品を読み返していく中で、さまざまな発見があった。レッドへリングの工夫、登場人物のあらゆる動きに必然性を持たせる配慮、「トリックが仕掛けられる必要性」に関しての四苦八苦……。アリストテレスの『詩学』、ボルヘスの『伝奇集』、わたしの感性をとらえる「秩序」へのこだわり。その原体験となっているのは、綾辻行人の作り出した世界だ。

ファウスト それでも己は物に動じないということを必ずしもいいことだとは考えないのだ。
 驚く、これは人間の最善の特性ではあるまいか。
 世間はこの「驚き」という感情を味わせてくれないようになってきたが、
 驚き撃たれてこそ、巨大な神秘に参入しうるのだ。
(ゲーテファウスト高橋義孝訳)

 本格ミステリに興味を持つ人間は、いまでも多くいる。新規読者も増えつつある。しかし、『十角館の殺人』のエラリイが強調するような「論理の遊び」としての側面に興味を持っているような読者は、すくなくともわたしの周囲ではあまり見かけない。「名探偵のキャラクター性」や「事件を通した社会との関わり」、「テーマを強調するための技巧」といった側面のほうが現在は人気を集めているように感じられる。綾辻行人の作品も、『暗黒館の殺人』や『最後の記憶』以降は謎解き一本という印象はなくなっている。綾辻に影響を受けたという作家も、辻村深月は『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』、道尾秀介は『球体の蛇』に至るまでに、作品内で謎解きが占めるスペースはどんどんちいさくなっていく。
 いわゆる「小説らしい」(?)ものを描きたくなる欲望に抗うのはむずかしい。そのうえ、そちらをメインにしたほうが作品がおもしろくなることもすくなくない。辻村深月に関していえば、『太陽の坐る場所』以降の作品のほうが、「ワンランク上昇した」という印象がある。彼女はその後直木賞を受賞して国内でもトップクラスの売れっ子作家となった。綾辻行人の『Anotherシリーズ』は、『館シリーズ』、『霧越邸殺人事件』、『囁きシリーズ』で用いられた要素を組み合わせて形作られた学園ホラーだが、純粋なエンターテイメントとしてはこれが氏の作品の中でも群を抜いておもしろいだろう(じっさいに、アニメ、マンガ、映画とメディアミックスが多く作られ、続編も制作され続けている)。

「僕にとって推理小説(ミステリ)とは、あくまでも知的な遊びの一つなんだ。小説という形式を使った読者対名探偵の、あるいは読者対作者の、刺激的な論理の遊び(ゲーム)。それ以上でも以下でもない。」
(綾辻行人十角館の殺人』)

 しかし、綾辻行人によって与えられた原体験はわたしの中で息づいている。謎解きのためにつくられた謎解きの話をわたしは否定しないし、いまでもなお、それらを求め続けている。それらに、現代に訴えかけるような高尚なテーマや、多くのひとを共感させるような優しみのある技巧はなくてもよい。ボルヘスがチェスタートンを評するのに用いた単語を使わせてもらうなら、その存在自体が、転がる枯れ草と鳥についばまれる骸が散らばった荒野に差しこまれた「秩序」の旗となっているからだ。ダンテの『神曲』にアリストテレスの理論が根付いているように、それらは回り回って、わたしにとっての行き先を、そしてまた、帰り道を示す道しるべとなっている。

【モーパッサン】『脂肪のかたまり』──鬱な話は鬱な気分をたのしむためだけのものか?

 「言葉フェチ」だの「読書中毒」だのと自称しているブロガーが叩かれている。《鬱漫画ランキング》なるものを発表して、その推薦文に「大嫌い」だの「焼却処分にしろ」だの嫌悪感を表した文章を添えたことで、反感を買っているようだ。
 ツイッターでバズる推薦文にはだいたい共通した特徴がある。「大大大大大傑作すぎて気持ち悪い声が出た」だとか「読み終わった後バン!バン!とベッドを叩きながら作者の名前を呼び続けた」だとか、いかにも熱がこもったように誇張した表現で興奮や感動が表されているのがそれだ。このブロガーもバズることを狙う人間らしく「鬱漫画」なるテーマとしてのすごさ(?)を強調するためか、「嫌悪感」を誇張して前面に押し出している。
 こういう推薦文の目障りなところは、短い時間で眼を引くため、紹介者の「感情の動き」ばかりが誇張されて、作品自体の独自性がまったく伝わらないことだ。たとえば1位となった『ブラッドハーレーの馬車』(沙村広明)の紹介文。「人の心にダメージを与えるためだけに存在する」だの「邪悪さを煮詰めた」だのといったキャッチコピーが並べられているだけで、『ブラッドハーレーの馬車』がどういう話なのかなにひとつわからない。これでは5ちゃんねるのブラックSSのような露悪メインのヤマなしオチなし作品と勘違いされてしまうんじゃないか。

 『ブラッドハーレーの馬車』では《パスカの祭り》という少女陵辱の催しが物語の中心に配置されている。ブラッドハーレー家の養子として引き取られ、この催しに参加させられる少女たちはほぼ確実に暴力で死んでしまうのだが、ブラッドハーレー家の協力者や祭りの参加者以外はこの事実を知らない。孤児院の少女たちは、富豪のブラッドハーレー家の養子に選ばれたら幸せな生活を約束されるとすら考えている。グロテスクな世界観だが、オムニバス形式でショッキングな1話目からすこしずつ作品世界の裏側が明らかになっていく構成は、ミステリ的な興味を引く。読者だけが知る「破滅」の概念は、登場人物たちの日常のやり取りに緊張感を持たせ、結末での喪失感は、それらの幸せをかけがえのないものにする。ときに囚人や監視員といった加害者サイドの人間たちの中に善意が芽生えることもあり、かれらが不条理な世の中に抵抗する姿には、美しさすら感じられる。
 エログロ志向自体はありそうだし、どのストーリーも後味がいいとはいえないから、「鬱」というラベリングをすること自体はできるだろうが、作品紹介として「人の心にダメージを与えるためだけに存在する」なんて書くのがふさわしいかといえばそんなことはない。べつにこの作品は嫌悪感自体がおもしろさの軸になっているわけではなく、あくまで《パスカの祭り》の存在から生じる人間ドラマにスポットライトが当てられている。
  そもそもの話、ホラーものの「恐怖」や本格ミステリの「カタルシス」に比べて、後味の悪い話の「後味の悪さ」(鬱?)というのは、その感情を引き起こすことが作品のいちばんの目的になっているのかといえば微妙なところだ。このブロガー氏は作品が「嫌悪感」を引き起こすことにおもしろさがあると判断して(てかほんとうに読んでるのか??)あのような文章を選んだのだろうが、作品が嫌な感情を呼び起こすからといって、それを感じさせること自体が作品の魅力の軸とは限らない。

  『脂肪のかたまり』(ギー・ド・モーパッサン)は娼婦のブール・ド・シュイフがいじめられるありさまにぞくぞくすることをメインとした読み物だろうか。普仏戦争プロイセン軍に乗っとられたルーアン乗合馬車の中、ブール・ド・シュイフは娼婦だということでほかの乗客たちから冷ややかな眼を向けられていた。それにも関わらず、愛国心の強い彼女は、バスケットに入った食料を分け与えて、かれらを空腹から救う。その後、乗合馬車プロイセン軍によって足止めを食らうことなった折も、ブール・ド・シュイフは、敵国プロイセンの士官に身を差し出して、ほかの乗客たちを救い出した。しかし、助けられた人間たちは、感謝の気持ちひとつ持たない。それどころか平気で自分の身を差し出したことにたいして軽蔑した態度を取る。嫌がる彼女に自己犠牲の精神を説き、プロイセン軍に身を売るようにうながしたにも関わらずだ。ブール・ド・シュイフはおもわず悔しさに涙を流し、すすり泣きの音が続く中で物語は幕を閉じる。
  『脂肪のかたまり』は、このように救いのない話だが、作品が引き起こす「嫌悪」自体を娯楽としてたのしめるかといえば、そうではない。というか、べつに読んでも、気持ち悪い声が出たり、身体が動き出したりするような感動を与えてくれる作品ではない。しかし、頭の中にある扉がひとつわずかに開き、そこから冷たいすきま風が入りこんでくるような感覚があった。そして、本作を読んで以来、わたしはすくなくとも自己犠牲を賞賛する人間を信用しなくなった。こういった感覚を与えてくれる作品が世にはほかにもある。カフカの『変身』、ドストエフスキーの『悪霊』、『若きウェルテルの悩み』、そしてモーパッサンを読むきっかけとなったパトリシア・ハイスミスの『11の物語』はそうした作品だ。
 究極のところ、作品は個人個人が好きなようにたのしめばいい。今回の件をきっかけとして『ブラッド・ハーレーの馬車』やほかの鬱漫画(?)を手に取る読者もすくなくはないだろう。しかし、「鬱」がどうとかいうラベリングされた成分だけがおもしろさのすべてではないし、おもしろさは心動かす興奮がすべてではない。作品がぞんざいに扱われたときに怒ることができたなら、そのひとはフェチでも中毒でもなくても、その作品にとっていい読者だろう。

 

 モーパッサンの短編集『口髭・宝石』に収録されている「藁椅子なおしの女」は、『脂肪のかたまり』とよく似たつくりとなっており、同じく後味の悪い話だ。談話形式であるから、ラストシーンに聴衆の反応が配置されているのだが、そのひとりである老婦人の物語を締めることばによって読後感がずいぶん異なるものとなっている。モーパッサンの「こう感じていてほしい」という祈りがこめられているように思えた。

【仮名垣魯文】『安愚楽鍋』──物書きの「信念」ってなんぞや?  

 仮名垣魯文の『安愚楽鍋』を帰りの電車の中で読み終えた。明治初期、都内の西洋料理店にやってきたさまざまな客たちが、牛鍋を食べながら、自らの体験談をだらだら話していく……という形式の戯作小説だが、予想通りというべきか、なんかつまらない。もともと内容自体をたのしむというよりは、明治維新直後(1871~1872)の風俗描写への興味から手に取ったものだから、期待していなかったものの、本書を読み終えてからは、「当時の人たちはこれを楽しんでいたであろうに、どうしてだろうな」という方向に考えが広がっていった。
 なぜ、おもしろさを感じられないのか。そのヒントは、岩波文庫版の解説に書かれている。

ここで魯文の作家としての生涯を振って考えてみると、結局は際物書きの連続にすぎなかったといえるようである。そして大体からいって際物作家には確固たる信念はなく、思想の深さもないのが通例である。ただひたすら流行を追い、世間の好尚に追随するのみである。そして世人の人気に投じることを、これ心がけるようになる。この点は魯文の際物作にもあらわれている。

(仮名垣魯文安愚楽鍋』解説)

 「確固たる信念はなく」「世間の好尚に追随するのみ」。このような姿勢を批判した作品は、古典名作に多い。パッと思いつく限りだと、ゴーゴリの「肖像画」、ポーの「群衆の人」、それから、ゲーテの『ファウスト』の前狂言に登場する詩人の意見も、これに該当するだろう。いずれの作品も、いってしまえば、「大衆に迎合しようとするとオリジナリティーが消失してしまう」ということが語られている。

詩人 どうかあの群衆のことはいわないで下さい。

 あの手合いを見ると、われわれ詩人は意気阻喪してしまうのです。

 無遠慮にわれわれをその渦に巻き込む

 あの群衆は真っ平御免なのです。

(ゲーテファウスト高橋義孝訳)

 群衆の喧騒は、あらゆるものを単純化してしまい、たんなる記号へと貶めてしまう。『安愚楽鍋』はどうだろう。『安愚楽鍋』に登場するひとびとは、牛鍋を箸でつまみながら、肉食が国内や海外ではどう受容されているかとか、芸者が欧米人に肉食を強要されて泣き出したとか、当時の世情やゴシップについての話題を提供してくれる。ここが当時を知る資料としての本作の価値を生み出しているが、逆にいえば、その範疇を出るようなものはない。「○新聞好きの生鍋」では「『史記』や『論語』などよりも洋学を学ぶべきだ」などというようなことが語られているものの、その思考に至った経緯や、これといった根拠のようなものは見受けられない。これもまた、当時いたであろう人間を機械的に書き写したゴシップのひとつにすぎないといえる。
 いってしまえば、かれらは、記号化された群衆そのものだ。作品が描かれた当時の人間なら、各登場人物に関して、自分との共通点を見つけながら共感し、あるいは差異を感じて滑稽さを感じることができただろうが、さすがに価値観が隔たってしまった今現在の読者がそのようなおもしろさを感じ取ることはむずかしい。これが、ほとんどの通俗ものが時代とともに消えてしまう理由なのだろう。

「大衆に迎合する」というのは、「物事の記号化によって共感を得る」ということなのだ。

道化役  その「のちの世」はやめていただきたいね。

 このわしが「のちの世」とやらを慮ったら、 

 一体誰が現在只今の人たちを笑わせるのですか。

 現在只今生きている人たちが問題さね。

(ゲーテファウスト高橋義孝訳)

 これにたいして「信念」とはなんだろう。辞書的な定義でいえば、「正しいと感じる自分の考え」。『安愚楽鍋』に欠如していた部分から考えていくと、それは「物書き自身の思考体系」といえる。
 以前、弊ブログの記事を紹介してくれた方が、「『源氏物語』や『徒然草』を『ポケモンSV』と並べて語るのがすごい」とおもしがってくれたことがあった。しかし、そもそもこのようなことができるのは、紫式部吉田兼好といった面々の「ものの考え方」が、ポケモンのような現代の娯楽に十分照らし合わせられる普遍性を持っているからだ。そしてそのように考え方を追うことができるのは、作品を通して、なにかしら作者の一貫した秩序が形成されているからに他ならない。すぐれた作品は、ある面で『パンセ』でもあり、『エチカ』でもあり、『純粋理性批判』でもある。
 では、「信念」、「物書き自身の思考体系」というのは、どのようにして形作られていくのか。人生における様々な選択の場面で、なにが正しいか、なにがより有効かを考えていく上で、先人たちの思考体系に触れることができる文学、それも長い時代の移り変わりに耐えて高い普遍性を持った古典文学は、絶好の材料だ。ただし、これについて、ショーペンハウアーボルヘスイタロ・カルヴィーノといった作家たちは、口を揃えて「古典を読むにあたって、評論から読んではいけない」と語っている。古典は自分なりの思考を触発するいい材料となるが、他人の意見をあらかじめ念頭に置くことは、それを阻害してしまう危険性を帯びている。

 まずは、歴史の大海に飛びこみ、手探りで路を見つけ出すこと。それがもっともすぐれた海図を描きだす方策だろう。現状、わたしは自分の無学さと凡庸さに直面しながら必要な時間の果てしなさを思うばかりだから、生きている間にまともな形になるかは怪しいが……。
 なんか、『安愚楽鍋』の記事なのに、『ファウスト』のほうがメインっぽくなってしまった。てか岩波文庫の『安愚楽鍋』は解説のほうが本編の先に配置されているから、わたしはバリバリこの低評価な解説を念頭に置いて読んでいたのだが、まあ細かいことは気にしないでくれ。