鍋の中にはカルプフェン

こい(@gyaradus)のブログ

【ロブ=グリエ】『嫉妬』──町の読書会がつまらなくなるのは「自分語り」のせいなのか?

 読書会に関するポストが話題になっている。「町の読書会に参加したら、参加者が本をダシに自分語りしてばかりで、テキスト理解を目指していなかった」というものだ。
 ポスト主は「大学院同士でやるものとはちがうので当惑した。反省した」なんていっているが、わざとらしい話だ。テキスト理解を中心とした読書会なんて、参加者にある程度の知識とそれを出力する技能がなければ不可能で、さまざまな階層の人間が集まるであろう町の読書会でそんなことができるはずがない。『一九八四年』には、主人公が大衆(作中ではプロールという階級がこれに該当する)から国の過去についての情報を引き出そうとしたところ、なんの脈略もない思い出話が延々と続いてしまう、というシーンがある。

 ウィンストンは無力感に襲われた。老人の記憶は些細なエピソードのがらくたの山に過ぎない。一日中質問したところで、まともな情報は何ひとつ得られないだろう。
(ジョージ・オーウェル『一九八四年』高橋和久訳)

 仮に能力があるひとがいたとしても、ほかの参加者のことを考えて、でしゃばらないようにしているだろう。反省もなにも、すこし考えればわかることである。

 さて、こういうポストが広がると、それに乗じて「自分は違う」とアピールしたがる人間が現れる。「おれなら本の話をしろとつっこむ」だの「つまらない自分語りをするやつは許さない」だのといったものがそれだ。しょうじきいって、いずれも欺瞞もいいところだ。
 前者では、「本の話」がさも「自分語り」と反するもののように語られているが、はたしてそうだろうか。読書会でよく見られるような「ここの部分がエモい」だの、「ここの要素からしか得られない栄養がある」だのといった感想の共有は、「本の話」ではあっても、テキスト理解には直接貢献しない。それらについて周りの人間が、「そうそう」と共感してたのしんでいたとしても、「わたしはこういうものが好き」という趣旨の「本をダシにした自分語り」であることにはかわりはない。
 そして呆れるのが、後者の「つまらない自分語りをするやつは許さない」という見解だ。自分語りがおもしろく思えるかどうかなんて、そもそも話している相手に関心を抱いているかどうかに左右されている(知らない芸能人同士が内輪話をするバラエティー番組がつまらないのもこのためだ)。「おもしろい自分語りや友だちの自分語りなら許容する」と発言していた人物もいたが、それは「おれの友だちじゃないやつはだまっとけ」といっているのとなんら変わりない。町の読書会で本をダシに自分語りをしていたらしいひとたちだって、自分たちにとっておもしろい自分語りを友だちに向けてしていたにすぎないんじゃないだろうか。
 ミステリマニア同士で話すとき、読書会についての不満が話題になることはすくなからずある。おもにあげられるのは「だれかの自分語りがつまらない」というものではない。「いつも決まったメンバーだけが気持ちよく話していて会話に加われない参加者がたくさんいる」というものだ。
 コミュニティー形成も本がもたらす立派な効用だ。だれもがテキストについて詳細に語れるわけではないのだし、本をダシに自分語りをするのはなんら悪いことではない。「ぼかぁ『長いお別れ』が好きだ。そして辛いジャワカレーが好きだ!!」。それでいいし、それをつまらない自分語りどうこう因縁をつけて弾こうとしてくる人間こそ悪党である。読書を楽しみ続けたかったら、「ああいうべき、こういうべき」なんて考えずにまず自分の感性を信じるのがよい。

 二人はこれまでに、小説の主題について、価値判断を下したことは一度もなかった。逆に、まるで現実に起ったことのように、場所や、事件や、登場人物について語りあうのだ。すなわち、二人が思い出を持っている場所(しかも、小説の舞台はアフリカなのだ)とか、二人がそこで知り合った人々、あるいはその噂を耳にしたことがある人々とかについて語りあっているみたいだ。
(アラン・ロブ=グリエ『嫉妬』白井浩司訳)

 ロブ=グリエの『嫉妬』を読み終えた。6月1日に行われる読書会の課題本だ。訳者後記と解説は読んでいない。難解な作品であるから、なにかしらの情報があったほうが理解は深まるだろうが、手探りで作品から宝石を掘り出していく感覚をたのしみたいのだ。
 ストックしておいた自分の意見をあれこれ話してみる。それがほかの参加者にどう洗い直されていくのか。そしてほかの参加者はこの作品についてどのような意見を述べるのか。わたしはそれにどう反応することになるか。いまのところ、この作品は、なにもかもがくっきり見えているが、よりかかれるものがない。大きな屋敷の中身が、仕切りのない巨大な広間になっているような感覚だ。さまざまな人間の視点が介入することによって、きっとここからさまざまな部屋ができていくことだろう。もしかすると、この所見自体、後になればバカげたものと自分で思えてくるかもしれない。しかし、このとき考えた筋道は消えることなく残ることとなる。
 そして、この読書会は、法月綸太郎の評論の理解を深化する意図をもって決めたものだ。今回得られるであろう知見は、またほかの読者会で共有できる。そうすることでまた読書の空間が広がっていく。わたしの読書会はわたしの中で町の読書会を越えて都市の読書会となり、やがて国の読書会、大陸の読書会へと拡大していくのである。最強……。もう自分語りするやつも、それに因縁つけてくるやつもどうだっていい。わたしの読書会はもはや世界レベルとなっている。ここまでくれば自分語りではなく世界語りではないだろうか。自分で書いていてなんかよくわからなくなってきた。明日に備えてとっとと寝よう。

【中上健次】『十九歳の地図』──札幌旅行と輝かしい思い出のつまった電車

 大学の卒業旅行で札幌にいったときのことだ。SNS上に現地で撮影した写真を掲載したら、このようなリプライがついた。
「忘れられない思い出になったでしょう」
 わたしは「べつに……」と返信を送った。それから同じひとがさらになにかリプライしてきたことはおぼえているが、どんな内容だったかはもう忘れてしまった。
 そのひとには数ヶ月後にタイムライン上から消えてもらった。「ソト」と見なしたのであろうとある作品について、わたしがたのしんでいる様子を一種の冗談とみなしたのか、小馬鹿にするようなリプライを送ってきたためだ。
  「忘れられない思い出」。気持ち悪いことばだ。なんで知り合いと観光にいっただけのことが、後生大事にしなきゃいけないかけがえのない思い出のように扱われなきゃならんのだろうか。このとき一緒に旅行にいった面子の大半とはもう連絡を取り合っていないし、観光の記憶を思い出してにこやかになるようなこともない。
 雪景色の中を歩む大学生たち。社会へ羽ばたく前の最後の余暇。広大な自然に眼を輝かせ、冷たい外気を胸にしみこませ、すこしの寂しさと将来への不安を抱えながら、仲間たちと輝かしい思い出を語り合う……、ああ、書いていて鳥肌が立ってきた。こんなしみったれた集団は、札幌の不良にカツアゲされて泥のついた雪の上に倒れ伏せばいい。わたしの思い出を勝手に型にはめて捏造されては困る。

なにも変りゃあしない。ぼくは不快だった。この唯一者のぼくがどうあがいたって 、なにをやったって、新聞配達の少年という社会的身分であり、それによってこのぼくが決定されていることが、たまらなかった。
(中上健次『十九歳の地図』)

『十九歳の地図』のラストシーン。主人公は駅員に電話で怒鳴りこむように爆破予告を行う。冷静に話し合おうとする相手に「うすら」「とんま」というような罵倒を続け、そのまま激しい勢いで通話を切ってしまう。そして、冷たい風の中、電話ボックスのそばの歩道で声を出さすに涙を流し続けながら、「これが人生ってやつだ」とこころに思う。
 主人公は端からみれば迷惑な異常者そのものだ。ろくに勉強もしていない、社会的な観点で見れば先のない浪人生であることにも代わりはない。しかし、読後感は不思議と澄んでいる。いいたいことはいったんだから。
 自分となにも関係のない人間の日常に予期しない事件が訪れてほしい。じっさいにはそうならないにせよ、レールが外れてしまう想像を抱いてほしい。かれと比べて月並みで自己保身的な手段をとっているだけで、わたしも考えていることは同じなのかもしれない。

【ロバート・B・パーカー】『初秋』──5月のせいで生活がぐだぐだになってきたのでスペンサーになる

 5月になってからまったくダメだ。日中は眠いし、身体はダルいし、集中力はとぎれるし、飯はまずいし、髪は汗で蒸れるし、四六時中イライラしている。大学ミス研の後輩が誕生日プレゼントを募集していたので、さぞ貧困にあえいでいるのだろうと共感してミネラルウォーター1箱とバースデーカードをプレゼントしたが、まったく反応がない。その上、「お誕生日おめでとう!」のメッセージをガン無視してきたものだから、憤激させられた。
  このような状況下に置かれているのはわたしだけではない。SNSを見るに、フォローしている同年代の人間の6割程度は5月に入った途端に無気力になり、精神的な悲痛を訴えていた(残りの4割は5月に限らず毎月精神的な悲痛を訴えている)。気圧の変化だの、ゴールデンウィーク明けだのといったさまざまな要因が重なるのだろう。自分用のルーティンチェックを調べてみると、5/7あたりからまったく運動をしなくなり、諸々の作業も進行ペースが落ちていた。
 こうしたつまずきを長引かせてはなるまい。2024年も三分の一を越えたともなると、中だるみしてしまうのだろうが、こういうときは、「たったいま真の2024年がはじまった」と思って気持ちを改めるに限る。まずはもう長くて汗吸ってうっとうしい髪を切りに行く。面倒だから可能な限り短くしてくれ、といったら『サザエさん』のカツオくんみたいな頭にされたが、もうこれでいい。こうして頭が冴えたことで、次になにをすべきかもすぐわかった。本の整理だ。調べてみたら52冊併読していたが、これではいったいなにに手をつければわからない。そもそもこれまで作業が進まなかったのはテーブルの上が本で埋め尽くされていて書類もパソコンも置けないせいだった。勉強用5冊、研究用5冊、自己管理用5冊の15冊にしぼり、あとは本棚に納める。続いて行うのはもちろん人間の整理だ。わたしのおたおめをスルーしやがったとんでもないやつはブロックし、野垂れ死ぬことを願うこととする。
 それからやったことは以下の通り。
・筋トレを行う。
・読書を行う。
・部屋の空気を入れ替える。
・エアコンを切って“自然”と一体化する。
・そもそも糖質をとりすぎ。カフェインもとりすぎ。冷たい水を飲みながら禁欲をする。
・『こころ』のKになりきり、「精神的向上心のないものは馬鹿だ」と考える。
・写真整理。とりあえず撮っておいた的なごはんの写真は一気にインスタに乗せる。

・文章整理。ブログの記事になりそうなものはどんどんまとめる。

・モーツァルトをきく。(●5/26追記)
・SNSや動画サイトのように「次から次へと興味を移させる」仕掛けのものから距離をとる。(●5/26追記)

 

「得意なものがなんであるか、ということより、なにか得意なものがあることの方が重要なんだ。おまえにはなにもない。なににも関心がない。だからおれは、おまえの体を鍛える、丈夫な体にする、十マイル走れるようにするし、自分の体重以上の重量が挙げられるようにする、ボクシングを教え込む。小屋を造ること、料理を作ること、力いっぱい働くこと、苦しみに耐えて力をふりしぼる意志と自分の感情をコントロールすることを教える。 そのうちに、できれば、読書、美術鑑賞や、ホーム・コメディの科白以外のものを聞くことも教えられるかもしれない。しかし、今は体を鍛える、いちばん始めやすいことだから」
(ロバート・B・パーカー『初秋』菊池光訳)

 ロバート・B・パーカーの『初秋』は、学生の頃から、いまのようにだれてしまったときに読む作品で、あまり通しての再読をしないわたしとしては、珍しく4回ほど読んでいる。(わたしが持っている文庫版は白地の背景に「初秋」の2文字が大きく記されていて、さらにその下に本編のセリフが添えられたカッコいいやつなのだが、だれなんだこのタンクトップのおじさんは。)
 私立探偵のスペンサーが、ダメな大人に振り回されて心を閉ざしてしまった少年を、筋トレだの大工仕事だのを体験させながら自立させていく……という筋。あまりものマチズモぶりに笑ってしまいそうになる話だが、この作品に影響されたことは数多い。
  「憧れる探偵像」というと、「強い」とか「賢い」とか、超人的なヒーローが思い浮かぶひとが多いかも知れないが、この作品に登場する探偵スペンサーの魅力はあまりそういうところにない。どういうところにあるかといえば、「スポーツをたのしむ」「読書をする」「料理ができる」「冗談をいう」「スポーツ観戦を楽しむ」「美術鑑賞を楽しむ」……。どれもいたってふつうのことで、やっているひとはいくらでもいる。しかし、スペンサーにとって、これらはどれも「自分の人生の舵を自分でとっている」証明なのだ。そのようにして様々なものに関心を持って生活をたのしむ姿が、「こうして生きたい」と思わせる。これぞ憧れだ。
 そもそも誕生日プレゼントをスルーされたくらいで憤るなどというのは、他人に自分の人生を委ねている印だ。そんな心構えでいたから5月になってしばらくうまくいかなかったのだろう。身を清めて心力を向上させたわたしは、これまでとは一味違う。今日から全力で5月に立ち向かう所存である。あと未来のわたしは、生活がぐだついてきたら、この記事に書かれていること試してくれ。

【ベルクソン】『笑い』──大喜利タグから感じる空虚さ

 江戸川乱歩賞の応募作品が「ふざけたペンネームだから」という理由で減点された、という話がSNSで話題になっている。そんなんで減点すんなよ……と思って調べてみたら、ほんとうにダサい名前だった。こんな股間に甲殻類がくっついたような作者名では、どんな大作であろうが読む意欲が減退するというもので、仮にも見知らぬ他人に読んでもらうことになる作品にこんなペンネームをつけるようなセンスの持ち主が作者なら、減点もしたくなるというものだ。『セクシーコマンド外伝 すごいよ!!マサルさん』のような作風だったのだろうか。

 タイトルやペンネームというのは立派な作品の一部だ。作家の森博嗣は、萩尾望都の『ポーの一族』を例にしてすぐれたタイトルの価値の高さについて話しており、タイトルから作品をつくることもあるという。乱歩賞の選考委員である辻村深月のデビュー作『冷たい校舎の時は止まる』は当初『投身自殺』というタイトルで、メフィスト賞の座談会では「つまらなそうだ」という評を受けていた。「密閉空間としての校舎、冷たい印象と冬、死と時間の経過、柔らかさと不思議さ」といった作品の魅力が伝わる現タイトルのほうがすぐれているのはいうまでもなく、このタイトルが辻村深月のキャリアを高めたといっても過言ではないだろう。

 しかし、どうも、「ペンネームなどという後で変えられるもので作品を減点するバカで頭の悪い選考委員」という物語がお気に召す人間が世には多いらしい。「そういう考えは古い」などとマルチ商法のような定型句を並べて、「いいペンネームだと思いますよ」とかなんとかペンネームにこめられた想いなど1ミリも考えてなさそうなことばで結ぶやつが現れる。「江戸川乱歩だってふざけた名前だ」とか江戸川乱歩の字面からにじみだす妖しげでカラクリじみた世界観なんてどうでもよさそうなやつが現れる。そして果てには「乱歩賞で減点されそうなタイトル」のようなクソつまらん大喜利タグの登場だ。

わたしが言いたいのは、わたしたちの身振りのうちで模倣できるのは機械のように画一的なところだけであり、つまるところ、わたしたちの生きている人格に関係ないところだけである、ということだ。誰かを模倣するとは、その誰かの人格のなかにそれとなく根づいてしまった自動作用の部分を引き出すことである。

(アンリ・ベルクソン『笑い』増田靖彦訳)

 ベルクソンにいわせれば、「笑い」は「形式の硬直性の緩和」だそうだ。大喜利の中で、「荒唐無稽なペンネームを大真面目に減点する選考委員」という形式が反復される。その中で「ペンネームを批判する」という行為は、内容をともなっていない「硬直性」として変質していく。周囲のともだちにきかせておけば良さそうな寒いネタを「タグ」によって共作形式にするのも、「大多数の人間(自分含む)にとってその考えは間違っている」という確信を強めるのに一役買っており、SNSに適している。「仲間はずれ」をつくることで、相対的にそのひとはひとりではなくなる(ように見える)。代わりに、そこにはなにも残らなくなる。

 このような経緯もあってか、私の周囲の流されやすいタコどもの一部は、とうとう「カニはいい。現代ではこのペンネームがウケる」というようなことまでいいはじめた。しかし、冷静になってみれば、そんなものは欺瞞もいいところだ。じっさいこんなペンネームで作品が世に出たところで、だいたいのひとは「なにこれ……」と白けるだろうし、「カニはいい」なんていっている連中も買ってたのしむかは怪しい。ベルクソンがいうように、おかしさの本来の環境は“無関心”なのである。有象無象の悪党のいうことを真に受けて「ペンネームなんてなんでもいいんだ!」などと思う人間が増えるのは、これから生まれるであろうまだ見ぬ作品たちにとってもったいないことだ。諸氏、自作を存分にたのしんでもらうためにもイカしたペンネームを捻出してほしい。

【ショーペンハウアー】『幸福について』──すぐに「いいね」されないほうが逆によい?

 いま読んでいる連載マンガの最新話の評価がどうも芳しくない。コメント欄を見ると、「オチがわからない」「絵の雰囲気でごまかしている」など、作品の構造を把握できていない意見が多く見られる。
 これでは作品が浮かばれまい、と思って、わたしとしては珍しく300文字程度の作品解説を投稿した。これで評価を改めるものも出てくるだろう……と想像して。翌日。いいね数──“1”。この1いいねは自分で自分にいいねしたものなので、だれもいいねしていないことになる。ちなみにこの回のベストコメントは同じくわたしが投稿したもので、読んでいる間に2秒くらいで思いついたつまらんギャグだった。

 かれらはハトのようにおとなしく、怒りがない。だが怒りのない人間は、知力もない。知力はある種のとげとげしさ、鋭さをはらみ、そのため毎日、実生活、芸術や文学で無数の事柄にひそかな非難やあざけりをおぼえるが、それこそ愚かな模倣を阻止してくれるものだ。
(アルトゥル・ショーペンハウアー「著述と文体について」鈴木芳子訳)

 オオオオオオオオオアアアアアアアアアア!!!! コロス!!!!!!
あーーーくそもう、どいつもこいつも、こういう風に解説を書いてもまともに理解を示さない。その一方で「考察」というラベルを貼られて出回るクソしょうもないトンチキはあちこちで沸いてくるからやってらんねえ。ああいうのはまともにものを考えないボケを驚かせるために考えの筋道を要さない(冷静に考えればおかしい)想起を利用したものがほとんどだ(〔ポケモンSVのセイジ先生は元ロケット団。根拠:ペルシアンが手持ちにいるから。髪型が悪者っぽいから。〕など)。
 いいねの数はあくまで解るひとの多さを示したものであり、意見そのものの価値を示しているわけではない。ランクマ強者御用達のキョジオーンがハッサムより使用率が低いのも、キョジオーンがダメージ感覚と構築読みを要する上級者向けのポケモンであるためだ(あと戦法が陰湿でキモい)。
 しかし、ルソーのいうように世論は強さだ。『動物農場』に登場するブタの独裁者ナポレオンは、自分の地位を確立するため、政治思想の理解できないヒツジたちを利用した。「四本足はよい、二本足は悪い」ということばをおぼえさせられたヒツジたちは建設的な会議を次々と邪魔し、動物農場はまんまとこの権威のことしか考えてない役立たずのブタ野郎に支配されてしまった。わたしの意見はなんの世論も味方にすることができておらず、弱い。それが不安を呼び起こしてしまう。自分の見る眼は良いものだという確信はある一方、ソクラテスのようにそれを主張するために命をすり減らせる強さはあるかと問われれば、そんなことはない。わたしは必要とされない役立たずだ……。

 こういう暗澹とした気分のとき、わたしはショーペンハウアーの著作を読む。権威を見下しながら権威を欲したひとの典型例だから、なんというかこういうときにやたらこころが共鳴する。大衆の虚構性に対する嫌気、自尊心とこだわりの強さ。老年まで評価されなかった人物だけあって、この手の鬱憤が文体からにじみ出すようだ。ショーペンハウアーの自戒は、わたしにとっての自戒にもなりうる。

 不朽の名作であるためには、多くの美点がなければならない。そのすべてを把握し、評価する人はなかなかいないが、それでもつねに、こちらの人物からはこの美点、あちらの人物からはあの美点を認められ、尊重される。そのとき、そのとき異なる意味合いで尊重され、決して汲みつくしえず、たえず人々の関心がうつろう中で数百年に わたって作品の名望が保たれる。
(アルトゥル・ショーペンハウアー「著述と文体について」鈴木芳子訳)

 内容を含んでいれば含んでいるほどそのすべて理解することは困難になる。だからこそ、シェークスピアやゲーテは現代まで残っているし、新たな読み方が開拓されつつある。すぐに理解されないのは、その場その場での同意を得ることをよりも、むしろ歓迎すべきことかもしれない。
 どうも視野が狭くなりすぎていたようだ。たかが1日、コメント欄で意見が評価されなかったからといってなんだろう。そんなのは当たり前のことで、自分の力のなさを嘆くに足るものではない。たんにいいねをされなかった。それだけのことだ。わかるひとにはわかるし、よくわからないものとして受け取った人間相手でも意識のどこかに働きかけるかもしれない。そもそもわたしが評価されている評価されていないの話でいえば、読んでいる間に2秒くらいで思いついたつまらんギャグがベストコメントとなっているのだから、いちばん評価されている。世論を味方につけていないどころかナンバーワンだ。このつまらんギャグは、じつはつまらんギャグではなく、日々の積み重ねで磨かれたわたしの審美眼があってこそ成せた、研ぎ澄まされたギャグだったのかもしれない。

 それゆえここで、何事によらず気取ったりしないように警告しておこう。気取りはいつも相手に軽蔑の念を起させる。第一に、気取りは欺瞞である。欺瞞自体、恐れに基づくものなので臆病者のすることだ。第二に、気取りは、実際の自分ではない人間に見られたい、したがって実際の自分よりも良く見られたいために、自分で自分に永劫の罰の判決を下すようなものである。なんらかの特性を気取り、それを自慢するのは、そうした特性を持たないことを自白するようなものだ。
(アルトゥル・ショーペンハウアー『幸福について』鈴木芳子訳)

 傲慢になれば、眼が曇り、物を見る力も創作する原動力も失われる。もともと大事なのは、解説が評価されるかどうかではなく、解説を行ったこと自体だ。たいした能力もない状況でこのように偉ぶっていれば、そのうち自分に都合のいい解釈しか選べないようになり、停滞の道へ進むことだろう。
 世評に一喜一憂していること自体、わたしがまだまだ実力不足である印だ。道を失うことなく、堂々とかまえ、粛々と創作に励む。価値はそうしているうちについてくるものだ。

【トルストイ】『戦争と平和』──だれもが“物”になりたがっている

 心に虚無がおとずれることがある。なににも集中できず、頭に浮かぶのは、広がる白地にΩ(空っぽな頭)のマークが記されているイメージだけ。とりあえず外を出歩いて、名前を知らない雑草が無秩序に生い茂っている様子を眺める。黒ずんだ雲が広がっている様子を見て、あれが水の粒であると思いつつ、ポケモンのミュウの頭に似ていると考える。気づくと、足は海に向かっている。
 毎日、本を読んで、ショート動画を眺めて、情報の奔流の中にいる。脳は数々の冒険をしているが、わたしの身体はじっと制して小さな空間を見つめ続けている。1000円札1枚ていどの面積しか有していない“これ”が、わたしの世界のすべてだ。

 夕刻の薄暗さの中、潮風でぼろぼろになったベンチの背もたれを、手で掴んでみる。押し返される感触があった。それとともに、そこに、それがあることを感じられた。岸辺まで歩いて、真っ黒な木片が波に打たれている様子を見る。『嘔吐』(サルトル)の主人公なら吐き気を感じそうな光景だ、などと思いながらしばらく薄闇の中、ただ波音を聞いていた。ふと、土の感触を確かめたくなり、後先考えずに波打ち際まで行って、湿った土を掴んだ。当然すぐに波がやってきて、わたしの靴と、靴下と、ジーンズの裾がぐしょ濡れになった。足の裏に張りついた水の気持ちの悪い感覚と、べっとりと左手についた泥の重さが、ようやく我に返らせてくれる。

この万象の海ほど不思議なものはない、
誰ひとりそのみなもとをつきとめた人はない。
あてずっぽうにめいめい勝手なことは言ったが、
真相を明らかにすることは誰にもできない。
(オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』小川亮作訳)

 8月に志賀直哉の『暗夜行路』を読んで以来、近場の海に訪れることが多くなった。志賀直哉の作品群に描かれる、人間の消え去ることのない孤独。それに受け入れるためのヒントが風景との調和にあると感じたためだ。
 作家仲間に利用され、妻の不貞を知り、自分の人生が嘘から始まっていたことを知った時任謙作は、鳥取の山中に向かう。そこで人力車を引く老人と出会い、かれがそのロジックの中で何十年も過ごし、過去も未来もなく、風景と一体化している様子に憧憬をおぼえる。

老人は山の老樹のように、或いはむした岩のように、この景色の前に只其所に置かれてあるのだ。そして若し何か考えているとすれば、それは樹が考え、岩が考える程度にしか考えていないだろう。謙作はそんな気がした。彼にはその静寂な感じが羨ましかった。
(志賀直哉『暗夜行路』)

 人力車引きの老人は、動物のように自然の摂理にしたがって、ただ生きている。これはもちろん謙作が勝手に老人の人生の一面を切り抜いて考えたことにすぎないが、その静かなインスピレーションは、神聖なものすら感じさせる。
 “孤独”は、人間関係という虚構の中で相対的に現れる。物としてのわたしにもどってみれば、ただ生命活動をしているだけで、目前にある恐怖とは無縁なのだ。自分を苦悩から解き放つためには、“物”に回帰する必要がある。あらゆる形の自傷行為は、ときには死に至ることもあるそれは、“物”でありたいという欲求の表れなのではないか、という考えが、頭に蘇りはじめる。

何ひとつ無い、在るのは無いものだけだ。
(ウィリアム・シェークスピア『マクベス』松岡和子訳)

生命は、発展のすべての迂回路を経ながら、生命体がかつて捨て去った状態に復帰しようと努力しているに違いない。
(ジークムント・フロイト「快感原則の彼岸」中山元訳)

 手が海水と泥を感じたとき、すべてが海に飲みこまれ、それに溶けこんでしまう感覚を部分的に感じる。こうしてわたしはほんのわずかな瞬間だけ死ぬ。波打ち際についた手の痕が波によって消される様子を見ながら、わたしは自分が部分的に死んだことを感じる。恐れもまた、葬られる。
 10月、志賀直哉の主要作品を読み終えた後、トルストイの『戦争と平和』を読みはじめた。『暗夜行路』の枠組みにはトルストイの『人生論』で語られている「動物的個我の消失」が無縁であるとは思えず、また、謙作の孤独にまつわる鬱屈に、莫大な財産とともに限りない不信を手にした青年、ピエール(※)の影を見ずにはいられなかったからだ。トルストイはどのように描いていたのか、ということが気になりはじめた。
 これまで人物ごと、シーンごとの切り口でしか語ることができなかった『戦争と平和』だが、今回、マクロにとらえることができた部分がある。この作品の叙事詩的なスケールの大きさに比して、個人はあまりにも無力だ。戦争の描写に関して『イリアス』を想起させるところもあったが、“世界”が描かれることで、個々の人間たちが個我を越えた秩序に組みこまれているような印象が与えられている。この作品の不思議と安らぐような感覚は、ここからきていて、作品構造が思想を体現しているのだな、と感銘させられた。

※  ピエール・ベズウーホフ伯爵はわたし自身に似ていると思う創作上の人物のひとりだ。かれの幼い個我から発する無謀さと愚かさ、ゾッとするような感情の爆発は、国内の「青春小説」と銘打たれている作品群よりもはるかに「青春」を感じさせる。 

目次〈文学〉

国文学

《平安文学》

源氏物語』(紫式部)

「蛍」

「幻」

「雲隠」

 

枕草子』(清少納言)

「十九 たちは」

「二六〇 御前にて人々とも」

 

その他

『紫式部日記』(紫式部)

『大鏡』(作者不明)

『更級日記』(菅原孝標女)

『成尋阿闍梨母集』(成尋阿闍梨母)

『讃岐典待日記』(藤原長子)

 

 

《鎌倉文学》

徒然草』(吉田兼好)

「第41段」

「第58段」

「第111段」

 

その他

『宇治拾遺物語』(作者不明)

『方丈記』(鴨長明)

 

(現在、自分用に平安~鎌倉の国文学の記事だけまとめてあります。その他のものは、また、都合または要望によってまとめていく予定です。)

2023/7/9 更新